「実感」至上主義について

途中から怒りが主たるモチベーションになっていたのだけれども、「実感」至上主義というけっこう重要な問題が浮上してきたようだ。予定している「靖国」についてのエントリとも関連するので、練りきれていないところもあるがざっと書いておく。
あの物語、「バターン死の行進の最中に弱ったアメリカ兵にキンピラゴボウを与えたせいで死刑になった日本兵」は、表立って語られていない暗黙の相関者として「好意を理解しない、復讐心に燃える米兵」「日本の食文化も理解せず、ゴボウを食べさせただけで死刑にしたインチキ裁判の関係者」を存在措定していることに注意しなければならない。そしてこの「物語」はガメ氏の「涙」とそれに対する読者の「感動」を通じて「捕虜虐待という野蛮を裁く文明」という構図*1を逆転させ、ヒューマニズムを体現する日本兵と野蛮なアメ公という構図をつくり出す。後者の構図においては虐待された捕虜の「実感」は復讐心という悲劇の原因として登場するだけで、決して共感の対象とならないよう誘導されている。これこそまさに、hokusyu さんが「本人は素朴な「実感」を吐露して何が悪い!(中略)と思っているようですが、その吐露が他人の尊厳を踏みにじっているのではないのか?という点にまったく無自覚である」問題として指摘しているものの一例だ。
特に、現在 gouk氏がさらけ出しているように「実感」ないし「主観」と現実との齟齬など一切気にしない境地に至ってしまうと、これはもうなにしろ「他者」が存在しなくなってしまうわけだから、「その吐露が他人の尊厳を踏みにじっているのではないのか?」と思い至る回路は断たれてしまうことになるわけだ。

*1:もちろんこれは連合国側にとっての建前で、実態としては「文明」の名に値しない側面が多々あったのはいまさらいうまでもないこと。ただし、裁判の手続き的な問題点を指摘して、「これじゃゲシュタポと同じじゃないか」と論じた米人弁護人もいたことをわれわれは忘れるべきではない。