『読売新聞』連載[時代の証言者]

お読みになっている方もおられることと思いますが、『読売新聞』の連載「時代の証言者」で去る㋂14日から秦郁彦氏が取り上げられています。相変わらず「慰安婦」問題についてはアレですが、旧軍関係者に聞き取りをしていた時のエピソードなどはなかなか興味深く、また丸山眞男を高く評価しているといった意外な一面を知ることもできました。
個人的に興味深かったエピソードを二つばかりご紹介いたします。
・3月28日「(11)陸軍 対米戦の知恵乏しく」

 田中へのヒアリングで一番印象に残ったのは、1941年12月8日という開戦日は、翌年に対ソ戦を発動する時期から逆算して決めた、という点です。表向きは12月中旬になると、マレー半島沖の海が荒れ、上陸作戦が困難になるので、その頃が米英と開戦する期限だったといわれますが、どうもそうじゃないんです。
 田中の願望では翌年春には、対ソ戦を始めたかった。南方作戦を終え、兵力を再び満州に戻す都合を考えれば、前年12月の対米英戦開始が適切だった、というのです。南方占領地の防衛は1、2個師団もあれば十分で、兵力の大半を満州に戻しシベリアに打って出るつもりだった、と。もちろん海軍には表だって言わないけれど、腹づもりはそうだったと言うんですがね。
 41年6月に独ソ戦が勃発し、これを機に日本は、翌7月、関東軍特種演習(関特演)を実施し、ソ連に攻め込む構えを見せます。田中はそのときの最強硬派でした。しかし8月に入り、冬が来るまでにソ連軍を打倒するのは無理と判断し、一応中止したのです。それは、田中にとっては延期したという意識なんですよ。

田中信一については、以前に加登川幸太郎氏による辛辣な批判を紹介したことがありますが、「田中にとっては延期したという意識」とは驚くやらあきれるやら。
・3月20日「(5)あだ討ちの心情消えた」
敗戦は悔しかった、しかし……

 しかし、あだ討ちの気持ちはすぐに消えました。それは米軍の占領政策が成功したからだと言えます。
 徹底抗戦を主張し、反乱まで起こした中堅将校の一団がいますね。中心は、阿南陸軍大臣の義弟の竹下正彦中佐。彼は戦後、自衛隊に入りますが、米国流の民主主義が思ったより悪くないと実感するようになった、と書いています。幕末の攘夷思想が開国へ急転したのも、似たような反応だったのかもしれません。

原文の読み仮名を省略。GHQの統治に対する評価が保守派の歴史観の中での対立軸であることがよくわかります。Hyakuta Naoki (本人の思想信条を尊重して中国由来の文字を使わずに表記しました)センセーなら「洗脳されたんだ」で片づけるでしょうね。
・3月16日「(3)戦前期日本の「本音と建前」」

 内務官僚出身の増田甲子七(かねしち)(戦後、吉田内閣官房長官)も回想録に書いています。2・26事件の頃に、陸軍中将の柳川平助が「不適任なら、別の人と替えてもよいのだ」と放言したので、増田は「あなたは逆賊だ」と反発したそうです。

さすが柳川平助。なおこの回の冒頭では「日本歴史における最大級の虚構は、「日本紀元二千六百年」説でしょう」とも。