石毛事件

「捕虜にごぼうを食べさせて有罪となった戦犯はいる?」問題についてのエントリへのコメント欄で、黒的九月さんが紹介されていた「お灸をすえたら虐待だと訴えられた」というエピソードについて、id:bat99さんが『法廷の星条旗BC級戦犯横浜裁判の記録』で調べた結果をレポートしておられます。個人的には、検察官が反対尋問で「モグサは、日本では子どもの処罰に使われるのではないか」と問いただしていることが印象に残りました。お灸に関する情報をかなり正確につかんでいたのだとすると、ごぼうについても同様じゃないか、とある程度の蓋然性をもって推定できます。つまり(仮に起訴状・判決でもごぼうの件が虐待として認定されていたとして)ごぼうはあくまで象徴的な事例として取り上げられているのであり、全体として問題とされていたのは捕虜収容所の劣悪な待遇なのではないか? ということです。

「断罪」の可否、続き

拙エントリ「なぜ「断罪」してはいけないのか?」にgood2ndさんからトラックバックを頂戴することができました。私が「はっきりと違う考えをもっている」と書いたのはやはり勇み足でしたね。また、もともとのきっかけとなったittuanさんのエントリでは「帝国主義」の歴史的評価が問題になっているのに対して、「戦争犯罪」という私個人の問題意識へひきつけすぎたところがあったかもしれません。「戦争犯罪」よりも「帝国主義」についての歴史的評価の方がより微妙なものとならざるを得ない、というのは確かでしょう。ただ、何度か(本館の方で)引き合いに出したことですが、例えばカントは1795年の時点で植民地主義批判を行っており(『永久平和のために』)、19世紀の日本人にとって「植民地主義批判」はアクセス不可能な理念ではなかった、ということはもっと強調されてよいことではないでしょうか。


さて、good2ndさんが

(前略)一方には「個人を感情的に断罪したり非難するだけでこと足れりとしてしまうという危険がありはしないか」という懸念があり(後略)

と書いておられるのはもっともで、まずなによりも歴史的問題を「個人化」してしまうと歴史認識として奥行きのないものになってしまう、ということがあります。また帝国主義植民地主義)批判にせよ戦争犯罪批判にせよ、人々の情念に強く訴えるところのある問題だから、断罪が声高であればあるほど頑なに擁護する人々も現われてくるだろう、ということもあるでしょう。また歴史認識の可謬性を念頭におけばやはりことばに気をつけるべきところはあろう、とか。
と同時に、過去について手間隙かけて調べよう・学ぼうとするとき、植民地主義がもたらしたものとか戦争犯罪への憎悪が動機の根底にあることは別に不当でもないし、感情的コミットメント抜きの知的好奇心だけで取り組めるような問題でもないでしょう。もちろん、その感情に引きずられてしまってはいかんわけですが。
ittuanさんはE.H.カーの「歴史は現在と過去の対話である」ということばを援用されている(カーがおかれていた「文脈」の問題については、左記のエントリのコメント欄でN・Bさんから指摘あり)。「対話」だから罵倒するのは非生産的だとしても、やはり「あなたは間違っていた、なぜならば…」と言うことを排除するものではないでしょう、この認識は。「歴史家は"裁判官"ではない」というのは「歴史家には刑罰や賠償を命じる法的権限がない」という実に瑣末な意味でまず正しいし、ittuanさんがおっしゃろうとすることが分からないでもない。しかし歴史家が南京事件の背景について研究し、「a、b、c…、これらの要因が南京事件を引き起こした」と判断するとき、その作業が裁判官のそれに類似したところを持つのもまた確かではないでしょううか? その「a、b、c…」が人為的にコントロールできる要因であり、それをコントロールする権限と責任を持った個人が存在したのであれば(南京事件について言えば存在しているのだが)、「a、b、c…、これらの要因が南京事件を引き起こした」という主張は「a、b、c…」を招いた(ないし放置した)個人の責任についての主張を含意せざるを得ないのだから。

あと、この際なので本音を書いてしまうけれども、調べれば調べるほどいかにデタラメがまかり通っていたかがわかっちゃうんですよ。末端の兵士によって担われた戦争犯罪の残虐さ以上に、軍上層部(師団長・中堅参謀クラスも含む)や政府のデタラメなふるまいには怒りを禁じえないわけですよ。外国の犠牲者に感情移入なんてできないという人には、せめて自国の兵士や民間人がなぜ・どのようにして死んでいったのかくらい知ってもらいたい。軍事的にまったく意味のない死に方をした兵士がたくさんいるんです。現地視察もしない司令官や参謀が地図の上に線を引いて立てた作戦(インパール作戦もそうだし、大陸打通作戦もそう)でどれだけの将兵が死に、それに対して誰がどう責任を取ったか(取らなかったか)とか、ね。

「これはひどい」カテゴリーをつくろうか、と一瞬思った(追記あり)

青狐さんが紹介されているケース。先日のエントリでもとりあげたことだが、民間人が地上戦に巻き込まれるという体験が広く共有されなかったことの帰結だろうか。しかし空襲にしたところで民間人が殺害されることには変わりないのに。日本人民間人の犠牲者も「しかたない」なのだろうか。満蒙開拓団の人々は中国から見れば「敵性住民」ですよ。だから「燼滅掃蕩」の対象になっても*1「しかたない」のかな?


追記:戦争なんだから万の単位で非戦闘員や捕虜が犠牲になろうがしかたない、と言ってしまう人はなぜ「戦争なんだから戦犯裁判で千の単位で死刑判決が出てもしかたない」とは考えられないんですかね。戦犯裁判は講和条約の前だから、法的にはまだ戦争終ってなかったんですよ。

*1:実際にはなりませんでしたよ、念のため。

「特攻」というメタファー

本館で書くか別館で書くか、書くとしてどのカテゴリで書くか迷ったのだが、とりあえずここに。


今朝通勤のため電車に乗っていると、向かいに座った男性の読んでいるスポーツ紙に「特攻ローテ 捨て身の中4日登板」といった(趣旨の)見出しが躍っている。今日5日からのジャイアンツ戦から、タイガースが先発ローテーションを組み替えるという記事である。
中4日なんてメジャーでは当たり前、日本でも高校生が2日続けて計24イニングを投げたりしているのに中4日登板が「特攻」とか「捨て身」だというのにまず笑ってしまうのだが、次いで「特攻」というメタファーの軽さに苦いものを感じたのである。
いしいひさいちがむかし高校野球とからめて「原爆」というメタファーの氾濫を皮肉る4コマを書いていたが、野球では「核弾頭」という常套句もよく用いられる。昔は「水爆打線」なんてのもあった(って、本で読んで知ってるだけですが)。


口にすべきでないことば、ジョークにすべきでない対象は存在するか? ムハンマド諷刺画事件は改めてこの問題を提起したわけだが、ムハンマドはおくとして「原爆」「特攻」がネタの題材としてタブーであってはならない、という主張に十分理はあると思う。それにしても上に挙げたような例はあまりに軽すぎる。他者への侵害性をはらむことば(いわゆる差別用語などもそう)を敢えてネタに使う際に、自己批判の契機がまったくみられない。自分のヴァルネラブルな部分は決して晒すことなく、他者に痛みをもたらす表現については「タブーにするな」と主張する。そうした用例まで擁護することは必要なのだろうか。

で、その種の「軽さ」といえば…

この人ですね。またしても、という感じですが。

ちょっと待った! 弁護士・成歩堂龍一の出番です。
(http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01)

「曾野のこういう軽いノリ」を問題とする*1文章を引用したあとで示される「ノリ」ですから、よもや筆が滑ったとかいったことではなく、この問題についてのあの人のスタンスを体現しているのでしょう。これって、誰よりも赤松元大尉に対する侮辱だと思うんですけどね、私は。

*1:曾野綾子の当該の文章は読んでいないので、実際問題曽根綾子のノリが「軽い」と評されるべきかどうかという評価はおいておくとして、とりあえず問題にはされている、という意味で。