『WiLL』5月号と「百人斬り」と山本七平


『ムー』みたいなものだと思えばハラも立たない自称「オトナの常識」*1月刊『WiLL』の5月号に南京事件(というより「百人斬り」訴訟)関連の手記が二つ。“「百人斬り」裁判で日本の司法は滅びた”の著者稲田朋美衆議院議員(自民)にして「百人斬り」訴訟の原告弁護人であるわけだが、冒頭に“日本刀で百人を切るなんてはなしは荒唐無稽”といった趣旨の一文があってやれやれという感じ。この「百人斬り」訴訟をめぐる否定論者の発言にはとりわけ支離滅裂なものが多く、その理由は「東京日々新聞に掲載された記事内容が事実であるか」「両少尉が実際にどのような戦争犯罪を犯したか(南京軍事法廷の判決の妥当性)」、「裁判の争点は何か」という、レベルの異なる3つの問題をごた混ぜにしているところにある。例えばここで展開されているやりとりなどをみると、彼らはわかったうえでごた混ぜにしているのか、それとも本当にわかっていないのか…と途方に暮れてしまうのである(もうひとつ、jimusiosakaさんの驚異的な忍耐力に腰を抜かしそうになってしまう)。「両少尉は東京日々新聞の記事だけを証拠として処刑された」などの説に至っては、「自分で自分の言っていることの意味が分かっているのか?」と思わざるを得ない。


もちろん、同様の戦争犯罪を犯した兵士・将校が数多くいる中で、二人が「シンボル」として有罪判決を受けたことについては同情の余地があるし、この事件がとりわけ有名になってしまったことに関して遺族が割り切れない想いをもつこと自体はよく理解できる。とはいえ、否定論がはびこるからこそ改めて戦争犯罪の事実を語らねばならないという側面もあるわけだ。否定論者が遺族感情を搾取しているのではないか、という印象を抱く。
ところで、「百人斬り」が今日有名となるにあたって本多勝一同様、あるいはそれ以上に貢献したのが山本七平である。“日本刀ではせいぜい2、3人しか斬れない”という彼の主張の破綻については例によって「ゆうのページ」で詳しく分析されている(こちらこちらを参照)。なによりあきれてしまうのは、『戦ふ日本刀』という本に言及しているところ。この本の著者成瀬関次氏は中国戦線に従軍して軍刀の修理にあたった刀鍛冶で(そう、軍刀は使ったなり放置されたのではなく、頻度はともかくとして専門家による手入れをされていたわけである)、47人を斬ったという少尉との対話を記録している。この対話では「百人斬り」の少尉も話題になっているが、成瀬氏はそれを「荒唐無稽」などとは言わず、むしろ「十人二十人を斬った」という武功談なら修理した血刀をみても頷ける、と言っているのである。これに対する山本七平のつじつまあわせがなかなかケッサクなので、ぜひリンク先をご一読いただきたい。
想像するに、山本七平は「百人切り」否定論を展開するにあたって「百人斬りを否定するために、日本刀の性能を貶めねばならない」「日本刀の優秀さを語れば、百人斬りもあながち不可能ではないということになってしまう」というジレンマに陥ったのではないだろうか。というのも、『日本人とユダヤ人』に似たような自家撞着の前例があるからだ。日本人がおかれて来た歴史的状況を「別荘」、ユダヤ人のそれを「ハイウェイ」になぞらえた章で、「日本人は戦争を知らない、いや少なくとも自国が戦場になった経験はない」から平和ボケで非武装中立などと寝ぼけたことを言うのだ(って、「非武装中立」を主張した政党の議席数はどんなもんですか? とうかがいたいところだが)と主張する一方で、次のように筆を滑らせてしまうのである。例によって浅見定雄の『にせユダヤ人と日本人』からの引用(53-54ページ)。

 (…)例えばジンギスカンの末裔の「ものすごさ」はくらべものにならなかったという(六四頁)。ところがその先が愉快である。この恐るべき元の軍勢が、もし博多沖の神風でやられず日本へ入り込んで来ていたら一体どうなったか、まず瀬戸内海には「命知らずの海賊がうようよして」おり(何と物騒な別荘か)、「また山陽道を陸路進めば、腹背を絶えず海上と山地からの遊撃軍の攻撃にさら」され、それやこれやで「結局は、日本武士団と農民軍に嬲り殺しにされるのがおちであったろう」(六二頁)。「物凄い」ジンギスカンの末裔よりも日本人の方がもっと物凄いというのだ。たいへんな「別荘の民」があったものである。出まかせのお話は、どうしてもちぐはぐになる。

これまた、プロパガンダ上の必要と武士の強さを誇りたいという欲求とが不調和をきたしているのだ、と思うがどうだろうか。



(初出はこちら

*1:まあ目次をみてこれがいい大人の言うことかどうか、ご判断いただきたい。「大人」でなく「オトナ」であるあたり自覚があるのか(w