性懲りもなく捏造する人


コメント欄でのやりとりをこのエントリで紹介し、その後コメントの一部が選択的に削除されたことをこのエントリでお伝えした、「Dr.マッコイの非論理的な世界」の「百人斬りというウソ」が、今度は閲覧不可になってしまった(残っているコメントは閲覧可能)。ブログ主の drmccoy 氏については、こうしたふるまいから、自分の主張に理がない(利がない)ことを自覚しているように思われる―ただそれを率直に認めることができないだけで―ので、現時点ではこれ以上言及するつもりはない。問題はコメント欄、野良猫氏の 2006/04/17 00:51付けコメント。例によって突っ込みどころ満載である。

単に「削除」の問題だけを語るなら、コメント欄をどう処置するかは管理人さん次第です。それに不満があったとしても、外部の人間はそれを受け入れるしかない(不満の有無はどうであれ)。
どうしても不満があるなら、自らの場所で記事を書くか関係を絶つしかない。

コメントを削除されたのは jimusiosaka さんであり、jimusiosakaさんは現に「自分の場所で記事を書く」という選択を行なっておられるわけで、野良猫氏はいったい誰に対して文句を言っているのであろうか? それとも、「コメント欄をどう処置するかは管理人さん次第」であるから、一部のコメント「のみ」を削除した理由を問い合わせる(問い合わせたのは bluefox014さん)ことすら許されん、とでも言うつもりなのだろうか。


また、すでに bluefox014さんから指摘されていることだが、
そして「運営方針として削除はよくない」と述べるなら、青狐さんの所も部外者が自由に書けるようにしないと不公平になりますね。
この人はなぜ平気でこういうデタラメを書くのだろうか。bluefox014さんのブログ「クッキーと紅茶と」は単に「はてな」ユーザーだけにコメント投稿を制限しているにすぎない。インターネットにアクセスできるリソースをもっている人間であれば誰でも無料で、わずかの手間と時間で「はてな」のIDを取得することはできるのだから(現に私は「はてなダイアリー」にコメントするためだけにIDを取得した)、こうした制限は閲覧者が「クッキーと紅茶と」にコメントする「自由」を実質的に侵害するものではない。さらに言えば、コメントができなければそれこそ「自分の場所で記事を」書いてトラックバックすればよいわけだ。だいいち、「はじめからはてなユーザーだけにコメントを制限している」ことと「すでに投稿されたコメントを削除し、かつ削除したという事実を明記しない」こととはまったく意味あいが異なる。この両者を同列に並べるあたり、野良猫氏の「史料(資料)」というものに対する態度を暗示しているようで興味深くはあるが。
もう一つ述べるなら「百人斬り」の議論については終わっているはずです。反論があるならば、ご自分の場所で書かれるべきですね。
そう、野良猫氏が思っているのとは別の意味で「終わってるはず」なのだが…。「南京事件=あった」派は別段“百人斬り”問題を積極的にとりあげたいなどと思ってはいないのだが、にもかかわらず南京事件否定論者が詭弁を弄して否定論のだしにするのでやむを得ず言及しているわけだ。jimusiosaka さんは新たに「反論」しようとしたわけでなく、すでに書いた「反論」を消されてしまったのでそのことを指摘したにすぎない。あなたこそ「反論」したいのなら「ご自分の場所で書かれるべき」ではないのか? 「うーん、別にあえて削除する必要はなかったと思います。一応は決着の付いていた題材を再燃させる理由を作ってしまいましたからね」などと書いていながら、自ら「再燃させる理由」を付け加えているわけである。まあこの人の言行不一致ぶりは今に始まったことではないが。
このあたりのポイントについて答えていただけると助かります。
とのことなんで、以下私見を述べる。
1.米軍司令部が彼らを事情聴取だけで釈放した理由はなぜか。
両少尉の戦争犯罪は中国国内で中国人を相手に行なわれたものであり、それゆえ国民党政府の主催した南京軍事法廷で裁かれた。この例に限らず、B級戦犯の裁判は一般に特定の国(犯罪の行なわれた地域、被害者の国籍等によって担当が決まった)が行なっている。中国国内での、通常の戦争犯罪に関して米軍が1)訴追にさほど熱心でなかったか、2)訴追に足る証拠を収集できなかったからといって、なんの不思議があるだろうか。まったくナンセンスな問いである。
2.その後の「南京裁判」で「百人斬り」の記事以外に証拠物件はあったのか。あるいは同じ部隊の証言者などは居たのか?「民間人や捕虜の虐殺疑惑」という罪状の調査ならば「百人斬り」という呼称を使うべきなのか?
これに対する答えは(削除された)jimusiosakaさんのコメントの中にほとんどあり、それを野良猫氏は読んでいるはずなのにヌケヌケとこういうことを書く…。二人の少尉が「新聞記事だけを証拠に」有罪とされたことなどあり得ない、ということは削除されたコメント中で jimusiosakaさんも指摘していたし、私も他ならぬ野良猫氏のブログのコメント欄で指摘しました。なぜなら、東京日々新聞は「百人斬り」を華々しい戦果として報道していたのであり、そんなものを証拠に訴追したり有罪判決を下せるわけがないのです。国民党政府が特にこの二人の少尉に目を付け、「一罰百戒」方針の「一罰」の対象として選択するうえで「百人斬り」報道が強く影響した、また二人の身元を特定するうえで役に立った、という可能性は高いでしょうが、これはまた別のはなしです。これまた jimusiosakaさんが削除されたコメント中で指摘しておられたように、南京軍事法廷の裁判資料は公開されていないため、審理プロセスの内実は明らかになっていません。しかし証拠集めに苦労した国民党政府が、(「一罰百戒」方針もあいまって)訴追対象をかなり絞り込んだことは「選り好みせずに身銭を切って」南京事件関係の書籍を買うことを旨としておられる野良猫さんなら、『現代歴史学南京事件』(柏書房)の第3章を読んですでにご存知でしょう。同様な犯罪行為を行なった兵士・将校が数多くいる中で特に二人がピックアップされたことについては「気の毒」と言える側面があり(そのことは笠原十九司氏も認めている)、また現代の水準からみれば証拠が不十分だった可能性は(資料が公開されていない以上)否定できない。しかしそのことと1)実際に両少尉が中国人民間人を殺害したか否か、2)東京日々新聞の報道、本多勝一氏の著書などが「名誉毀損」にあたるかどうか、とはまた別の問題。少なからぬ人が繰り返し指摘しているように(私も指摘した)、南京事件否定論者の「百人切り」論は水準の異なる問題を(意図してかどうかは知りませんが)混同しているのです。
 また「百人斬り」という「呼称」について。これまた削除されたコメント中で jimusiosakaさんが縷々説いておられたように、この呼称は(両少尉の行動を賛美する報道によって)60年以上前にすでにうまれていたものです。「○○、と呼ばれていたものが実は△△であった」という記述を行なう場合に、「○○」という呼称を使わずにすませることはできません。また、使ったところで「実は△△であった」という記述を読めば、通常の日本語運用能力の持ち主にとっては「実態は○○ではなかったのだ」ということは容易に理解できます。そもそも、上でも述べたように、今日積極的に「百人斬り」問題について語っているのは南京事件否定論者であり、「南京事件=あった」論者は否定論者による誤解ないし詭弁に反論する必要に迫られて言及しているにすぎません。
3.いわゆる「据えモノ斬り」という表現は、どこから始まったものなのか。新聞記事を根拠にするなら戦闘中の戦果のはずだが、この記事はどのレベルまで信頼性があると考えられるのか。
野良猫氏は jimusiosakaさんのブログでのやりとりを忘れてしまったのでしょうか。野良猫氏が(新聞報道だけを証拠に有罪判決を受けた、という思い込みに基づいて)
 証拠物件には「敵陣に斬り込んだ」と書かれている(そもそも据え物斬りで百人斬ったところで勇ましい記事にはならない)。こうなると、そもそも「据え物斬り」という言葉がどこから出てきたのかが問題になる。
(…)
 そちらが主張される「中国の旅」で「据えもの斬り」という描写が載っている箇所のページ数を教えてください。こちらでも本を再入手して確認してみます(前に購入したものはブックオフ行き)。確かに「捕虜の虐殺容疑」という形で起訴されてはいますが、証拠物件は例の戦意高揚記事のみ。
と書いたのに対して、bluefox014さんからは
そんなこともわからないのですか。それがわからないということは、つまり本多勝一が何を論拠に何を述べているのか、その一番肝要な点を知らない、基本的に理解できていない、ということです。
というコメントがあり、さらにそれに先立って「『中国の旅』を批判する人達の中には、どうも『中国の旅』そのものをきちんと読んでいない人が多いのではないか、という気がしてなりません」とも書かれているわけですが、いまだに『中国の旅』(でも、『南京への道』でもよいですが)を読んで(読み直して)おられないのでしょうか。「選り好みをせず身銭を切って」本を読むことを旨としておられる野良猫さんらしくもない…。
4.少尉達の講演を聴いたという「証言」や「回顧録」の内容は確かなものなのか。そうだとしたら「南京裁判」で彼らは証言台に立ったのだろうか。現在「百人斬り事件」というものを信じる方々は、これらを堅く信じているかどうか明確に述べてほしい。
志々目氏や望月氏が南京軍事法廷で証言した、などという事実があったのなら、遺族による民事訴訟の中で争点にならないはずはないのであって、一体こんなことをなんのつもりで問うのか、理解に苦しみますね。志々目・望月両氏以外に証人になりうる人間は存在しないとでも思っているのでしょうか? だとしたら、そう考える根拠を示してください。「現在「百人斬り事件」というものを信じる方々」というのが、東京日々新聞の報道通りの事実があったことを信じる人間、という意味であるなら、南京事件に関心を持ち複数の文献を読んでいる者の中にはまずそういった人間は存在しない、と言ってよいでしょう。「新聞報道は当事者の談話をベースにしているが、裏を取ったわけではない戦意高揚記事であり、いわゆる“百人斬り”の実態は捕虜や農民の据えもの斬りだった」かどうかについて言えば、“日本の刑事裁判において有罪とされた人間が実際に罪を犯していた”のと同じ程度の蓋然性で「その通りだろう」と私は考えてます1)。そもそも、志々目氏や望月氏の証言の信憑性を問題にする人びとが、当事者の弁明や「講演で百人斬りのはなしはなかった」という同級生の証言を鵜呑みにするのは理解に苦しみます。弁護人ならばそういう態度も至極当然でしょうが、歴史的検証と弁護とは異なりますから。

 この際なので言っておくと、野良猫氏の2005/09/12 07:23付けのコメントも
 基本的に、勝った側の国が負けた側の要人や将兵を処断するのは、日本で言えば戦国時代の概念です。
をはじめとしていい加減極まりないのだが(「戦国時代の概念」で考えるなら、天皇の首級をとっていなければおかしい)、まあ今日はこれまでということで。


追記:さらにはエントリそのものが削除されてしまった。野良猫さんが「再燃」させた結果であろうか。エントリとコメントの多くは Google のキャッシュで読むことができるが、17日以降のコメントは確認できない。保存しておいてよかった。



1) 根拠を簡潔に述べておきます。まず、望月氏と志々目氏の、まったく独立に行なわれた証言が内容的に符合しているというのが決定的です。特に望月氏の場合、一方の少尉の部下として南京攻略戦に参加した元兵士ですから、「思い違い」という可能性は限りなくゼロです。他方志々目氏の証言はいわゆる「目撃証言」ではありませんが、刑事訴訟法で言えば324条が規定する類いの証言に相当しますから、「322条の規定を準用」して証拠能力を評価されます。志々目証言は刑訴法322条の「被告人に不利益な事実の承認を内容とするものであるとき」という規定を明らかに満たしており、また当事者である少尉が講演会で語ったことの記憶ですから「特信状況」というもう一つの要件も満たしています。志々目証言に証拠能力のみならず証明力を認めるかどうかについては別途検討が必要ですが、ここで上述した「望月証言との符合」が重要なポイントになります。残る可能性としては志々目・望月両氏が二人とも、独立に嘘をついている…というものですが、私の知る限り両氏が共に嘘をつく動機をもっていたと具体的に指摘した論者は存在しません。
さらに状況証拠として、志々目・望月証言が語る「据えもの斬り」の情景は、両証言とはやはり独立に行なわれた加害者や目撃者による同様な情景の証言と(あるいは「証拠写真」と)よく符合しています(証言に嘘や思い違いが含まれることはよくあることですが、独立に行なわれたいくつもの証言がそろって同じ内容の嘘、ないし思い違いを含んでいるという蓋然性は極めて低いことに留意してください。また望月証言に関して、それが意図的な虚偽であった可能性があるかどうかについてはこちらをご参照ください)。また、東京日々新聞の記事が記者による完全な創作ではなく、両少尉の談話に基づいていると言ってよいことは遺族による「名誉毀損」裁判の判決でも認定されたわけですが、両少尉がただの一人も斬殺していないのに「百人斬り競争」のはなしを記者にしたとは考えにくく、南京事件否定論者が主張するように「白兵戦のなか、日本刀で敵兵を殺すのは困難」なのだとすれば、なおさら「据えもの斬り」だった蓋然性が高いということになります。
もうひとつの状況証拠として、両少尉の弁明が二転三転していること(これについてはこちらをご参照ください)があります。二人が共に真実を語っていたのだとすれば、多少の記憶違いなどがあったにしても大筋においては一貫しかつ一致していなければなりません。




(初出はこちら