「遺族の心情」について


「+ C amp 4 +」の4月16日付けエントリ、「論争相手のコメントを全部削除するひとについて」について。「コメント欄からあたかも最初からいなかったかのように論争相手を消して自分だけ堂々と生き残る、みたいなやり方」に比べればブログごと消去という「トンズラ」の方がずっと容認できるという点についてはまったく同感なのだが*1、ここでの本題はエントリの末尾、およびコメント欄でのやりとりの方。

(…)本多氏の記述が「東京日々新聞」の報道通りの「百人斬り」があったとは主張していないとしても、結果として「東京日々新聞」の報道通りの「百人斬り」があったという強い印象を与えてしまったことへのフォローが必要なのではないかという気がしている。

この点については、コメント欄で青狐さんがおっしゃっている通り、本多勝一の著作が「結果として報道通りの「百人斬り」があったという強い印象を与えてしまった」というのは事実に反しており、むしろ本多勝一によってこそ「新聞報道通りの「百人斬り」はなかったのだ」ということが知られるようになったのだ、と言ってよいと思う。むしろ南京事件否定論者こそが、あたかも“南京事件=あった派は新聞報道通りの荒唐無稽なことが行なわれていると主張している”といわんばかりの議論をまき散らしていると言うべきだろう。これに対して本多勝一の立場から「フォロー」するとすれば、いわゆる百人斬りの実態が捕虜や農民の「据えもの斬り」であったことを強調せざるをえず、遺族にとってはなおさらうけ容れがたい事態になるだけである。


他方で、
あと、これは私の個人的な感覚ですが、残虐行為をした人の家族の指摘する事実が誤解あるいは悪意に基づくものであったとしても、私はその心情をどこかでくみとって欲しいと感じます。それが法的に保護された利益であるかに関わりなくです。
という点については異論はない。例えば犯罪被害者の遺族が「犯人だけでなくその親も市中引き廻しのうえ磔獄門にしたい」と発言したとしても、私はそれを咎める気にはなれないしまたそれが遺族の私的な感情の吐露に留まるかぎり咎めるべきでもないと思う。

問題は、第一にそうした遺族感情に「寄り添う」というよりも「おもねる」「便乗する」と言うべき言動がしばしば(というより決まって)現われるということである。遺族が「親も磔獄門にしたい」と発言するのは見過ごされるべきだとしても、国務大臣がそう発言しまたそれが喝采を浴びるといった事態はやはり批判されねばならない。そうした批判は「結果的に」遺族感情を逆撫ですることになるかもしれないし、なるべく逆撫でしないかたちで批判するのが望ましいとは思うが、逆撫ですることになってしまった責任は遺族感情に便乗した者が負うべきである。


 第二に、十五年戦争における日本の戦争責任を追及する議論は、高級将校や参謀は別として、下級将校や下士官、兵士の個人としての責任を告発し追及するのではなく、むしろ下級将校、下士官、兵士をそうした蛮行へと追いやった日本軍の構造的体質や大日本帝国の「国家の品格(の欠如)」をこそ問題にしようとしているのだ、という点(南京事件研究家であった藤原彰が同時に『餓死した英霊』も書いた、というのはその一端)。つまり少なくとも下級将校、下士官、兵士の遺族感情に対しては十分な配慮をしたうえで行なえる議論であるし、実際に下級将校、下士官、兵士に関して特定個人の残虐性を弾劾するような記述は少なくとも私が知るかぎり存在しない(高級将校や参謀については、たとえ遺族感情を損なうことがあったとしても断罪すべきことは断罪するに値する公益が存在する)。いま手元にある本多勝一の『南京への道』(朝日文庫)にしても、
「据えもの斬り」については、このころ日本刀を持っていた将兵の大多数が経験者らしいが(後略) (167頁)
としており、「百人斬り」の二少尉のイディオシンクラティックな問題には決してしていない。「遺族感情」からすれば「父を(夫を)してそのような残虐行為に走らしめたなにものかをこそ怨嗟の対象としてもよさそうなものだし、現にそういう問題意識をもっておられる遺族もおられるわけだが、そうした態度が主流とならないことの責任を「日本の戦争責任を追及する論者」に(だけ)負わせるのはやはり不当であろう。亡き父(夫)への追慕の念と戦争犯罪を直視することとを両立させることは(大多数の遺族にとっては)可能であるし、遺族に対して甘言を弄するような戦争犯罪否定論さえ存在しなければ、こちらとしてもわざわざ遺族感情を逆撫でするようなことを言わなくてもすむのだ(中国ですら、首相の“A級戦犯が合祀された靖国”参拝を問題にしているのであって、戦死者遺族が靖国神社に参拝することに異議を唱えているわけではない)。


そして第三の問題が、一足先にコメント欄で「コカコーラ」さんが指摘しておられるように、日本軍による戦争犯罪の被害者にも「遺族」がおり、固有の「遺族感情」がある、という事実である。通常の刑事犯罪であれば、加害者の親族の心情などまったく無視した報道があふれかえっているのが日本の現状であり、沖縄での強姦事件で容疑者米兵の家族が無実を信じるとコメントしたところそれすら非難の的となるのが今の日本である。こうした点で、犯罪に対して責任があるわけじゃない加害者親族の心情にもっと配慮があってよいはずだと思うが、しかしその配慮が被害者の親族(遺族)の心情を無視する口実に使われてはならない( swan_slab さんの意図がそんなところにあるわけじゃない、という点は十分承知しているので、以下は戦争犯罪否定論に関する議論として読まれたい)。刑事犯罪については「被害者遺族の心情」をだしにして「加害者親族の心情」を蹂躙するような言動が噴きあがる一方、戦争犯罪になると一転して「加害者遺族の心情」をだしにして犯罪事実の究明すら抑止しようとする人びとがいるわけである*2。こうした非対称性は、「われわれ/彼ら」という立場の交換可能性に対する想像力の制約というパラメーターを考慮に入れれば矛盾でもなんでもなくむしろ首尾一貫した態度ですらあるわけだが、あまりにも素朴である。本多勝一のしごとにはなしを戻すと、『中国への道』が書かれた時点で日本では「あまりにも日本軍の加害について語ることが少ない」という状況があった。吉田裕の『日本人の戦争観』などに詳しいが、戦後長らく戦争をめぐる日本国内の言説は原爆・東京大空襲・シベリア抑留などに象徴される「被害」体験を中心にしており、南京事件についていえば教科書から消し去ることに文部省が成功していた時期さえあったのである(→家永裁判)。「百人斬り」論争について考えるとき、このような文脈も抑えておくことが必要だろうと思う。




(初出はこちら

*1:すでにお伝えした通り、現在ではエントリごと削除、という状態になっている。これは「トンズラ」と「自分だけ堂々と生き残る」の中間、やや後者よりと言ったところか。

*2:もちろん、(戦争)犯罪の究明にあたって被害者感情に便乗するようなふるまいがないかどうかも問題にする余地はあるわけだが。