追記

2点ほど追記。笹氏は「「バターン死の行進」女一人で踏破」中で、日本兵に時計や金品を奪われた…といった被害者の調書証言を「にわかには信じ難い」と(なんら具体的な根拠なしに)断じているが、同様な証言は「調書」のみならず法廷(マニラ法廷)での公判でもみられ、また鷹沢氏の聞き取りによっても得られており、それらがすべて嘘であるというほうこそ「にわかには信じ難い」(独立した証言が内容的に一致しているのだから)。当時の日本は、特に兵士の多くの出身階層は、今われわれが想像するよりはるかに貧しかった。その貧しさを、データを交え示しているサイトがあるので紹介させていただく。日本兵たちにとって、特に米軍捕虜の持ち物が魅力的に映ったであろうことは想像に難くない。戦時国際法についての教育などまったく受けていない兵隊たちが、「捕虜のものはおれのもの」と考えたとして、なんの不思議があるだろうか…。
また、鷹沢氏が日本軍の命令系統の混乱を「死の行進」の背景として指摘し、「しかし日本軍は陥落後、捕虜の移動に関して混乱状態にあり、重要な事柄を徹底して伝えるほど余裕がなかったのだ」としている点について、笹氏は次のように書いている。

これは、戦時下の状況をあまりに理解していない空疎な言葉といわざるを得ない。このとき、眼前のコレヒドール島攻略が日本軍にとって焦眉の急であり、直後から実際に大砲撃戦が展開された。その最中、捕虜の輸送がもっとも「重要な事柄」にはなりにくい。(後略)

私は「空疎」なのはむしろ笹氏の主張だと思う。まず、引用した箇所に先立って鷹沢氏の文章を引用する際、笹氏は「重要な事柄」という部分に傍点を振って強調している。ところが、反論にあたってはなぜかそれが「もっとも「重要な事柄」」に化けてしまう(強調引用者)。別に鷹沢氏は捕虜の移送が「もっとも」重要な事柄だ、とはしていないのであるが。しかし「もっとも重要」でないからといって「重要」でないことにはならない、のは言うまでもないことである。すでに別のエントリで述べたことであるが、戦争による敵の殺害が「合法」的なのは、戦争にまつわる法規を守って戦争が行なわれるかぎりにおいてである。戦争の目的上、捕虜の取り扱いが「もっとも重要」な事柄とされないのはやむを得ないとしても、それを重要視できない軍隊には戦争を行なう資格がないのである。捕虜を人道的に移送しながら戦うことができなかったのは、日本軍に人権意識とリソースが欠けていたからであるが、これまた当時の日本の「貧しさ」の反映であろう。
また、笹氏は「命令系統の混乱」という鷹沢氏の指摘にはまったく反論できておらず、「重要」を「もっとも「重要」」にすり替えて「しかたなかった」という印象を与えようとしているにすぎないのだが、軍隊という組織にとって「命令系統の混乱」とはもっとも恥ずべき事態であるはずだ。戦闘に負けたときならともかく、勝って命令系統が混乱するとは一体なにごとか? 上に(捕虜の取り扱いに関する)確固たる方針がなく、下に戦時国際法の知識が欠けており、間に入った中堅参謀や部隊長が勝手な命令を出す…この構図は南京事件とも共通点をもつと思われる。
日本人の自己イメージはしばしば「日本=チームプレー/欧米=個人プレー」というかたちをとるのであるが、旧日本軍の実態についていろいろと文献を読むうちに、私は違う印象を持つようになった。合理的なチームプレーに必要なのは一方で指揮官のリーダーシップであり、他方で兵士たちが自発的に、自らの意思に基づいて命令に従うことである。ところが日本軍の場合、上は「責任(感)の欠如」に、下は「自発性の欠如」に侵されていて、それが「想定外のことが起きるとどうしてよいかわからなくなってしまう」という結果を招いてしまうのではないか。これを南京の国際安全区と比較してみよう。彼らは第14軍と比べて極めて限られたリソースしかもっていなかった。にもかかわらず、数週間に渡って20万人もの難民キャンプを運営し、疫病や飢餓、難民間のトラブルによる大量死などを出すことなく、難民たちの犠牲を減らすことに貢献したのである。ラーベたちのリーダーシップと、彼らに協力した中国人の自発性あってのことだろう。