「自虐一色に染まる」っていったいなんのことなのか、意味が分からない

noharaさんの9月29日付エントリを青狐さん経由で今日読んで、少しコメントさせていただいたのだが、それとは別の件について。そのエントリで言及されているnoharaさんの05年7月24日のエントリへのコメント。

(前略)
最近「あの当時の戦争を」議論している方々も、美化などしていないと思います。しかし自虐一色に染まるのは異常です。多分「殆どの」彼らはここを議論しているはず。私もです。
(後略)

よく耳にする論法なので特に発言者に固有の主張としてではなく、一般論として考えてみたいのだが、いったい「自虐一色に染まる」というのはどういうことなのだろうか? 広辞苑第四版によれば「自虐」とは「 自分で自分を責めさいなむこと」と定義されているが、例えば刑事事件の犯人が「私がやりました」「被害者の方に申し訳ない」と語ったからといって「あいつは自虐的だ、けしからん」などとは決して言われないだろう。むしろ容疑を否認したり「改悛の情」を示さなかったりすると「あいつはけしからん」と、特に保守派の人々はいう傾向があるんじゃないだろうか。人が何かよからぬことを行なったのなら、それを正直に認め、反省し、責任をとろうとすることはたいていの場合美徳とされるのであって、してみれば「自虐」というのは、少なくともこの語が否定的な意味あいで用いられる限り、「やってもいないことで自分を責める」「やったことは悪いことじゃないのに自分を責める」「確かに悪いことはやったが、その悪にみあわない度合いで自分を責める」ことを指すのだと理解せねばならないわけである*1


さらに「一色に染まる」とはどういうことか、という問題がある。例えば一編の論文なり、ブログの一エントリなりが旧日本軍についての否定的な評価ばかりを語っているということは当然あるだろうし(私もそういうエントリを書いている)、一冊の本が旧日本軍についての否定的な記述ばかりを語っている、ということさえあるだろう。しかし、そうした事態をもって「一色に染まっている」と言うことはできない。論文にせよブログのエントリにせよ書籍にせよ、なにごとかを書くにあたっては主たる目的があり、時間や紙数その他の制限があって、あらゆることを詰め込むわけにはいかないからである。したがって、「一色に染まる」と有意味に語りうるためには、「影響力のある勢力として認めうる言論集団(まあ、端的にいえば左翼)の言説が、旧日本軍なり大日本帝国への肯定的評価を金輪際含まず、否定的評価に終始している」という事実が成立している必要がある。


さて、左翼の一人として自分がブログ等で書いてきたことを振り返ってみるに、少なくとも主観的には「やってもいないことで自分を責め」た覚えもないし、「やったことは悪いことじゃないのに自分を責め」た覚えもない。旧日本軍の戦争責任、戦争犯罪を追求する活動をしている他の人々にしても同様だろう。もちろん、事実認定の誤りは発生しうるだろうが、それは「自虐」云々とはとりあえず別問題である。「確かに悪いことはやったが、その悪にみあわない度合いで自分を責め」ているかどうかは、「度合い」という主観的な要素が絡むので難しいところだが、「日本軍は悪いことなど一つもしませんでした」という宣伝を熱心に行なっているグループ、あるいは「悪いことをしたのはわかってるけど、できるだけそれを隠しておきたい」と考えるグループの存在を考えれば日本の言論界全体として「確かに悪いことはやったが、その悪にみあわない度合いで自分を責め」ているとは言えないだろう。なにしろ、文部省が南京事件を歴史教科書から事実上追放することに成功していた時期だってあったのだ。
また、私が旧軍について否定的なことばかり書いてきたのかと言えばそうでもない。もちろん、「日本軍は悪いことなど一つもしませんでした」「大日本帝国はいいこともいっぱいしました」といった発言への対抗言説として書いている都合上、否定的な評価が主であるのは事実である。しかしながら、例えば非戦闘員の殺害に胸を痛めた人々や、インパール作戦のようなバカげた作戦に反対して部下の命を守ろうとした師団長たち、特攻作戦に反対した指揮官たちになどついては肯定的なことをちゃんと書いているのである。他の「左翼」の人々についても同様であろう。


追記:身内(われわれ)と部外者(彼ら)を分ける境界線は一定ではなく、文脈によって大きく変化する。左翼のコスモポリタニズムをあざ笑っている人間も、スペースノイドコロニー落とししかけてきたら「アースノイドの団結」を叫ぶだろう。右派が刑事事件の犯人を(あるいは単なる容疑者を)激しく断罪しながら旧日本軍の戦争犯罪については簡単に免罪してしまえるのも、刑事犯罪者はただちに「われわれ」から切断してしまう一方、日本軍将兵には強く同一化しているからだ。前者の場合、「その人々も同じ日本人」( Gl17さん)であることはきれいさっぱり忘れ去られ(もっとも、犯人が外国人なら一層切断しやすいのだが)、60年前の日本軍将兵より現代の犯罪者の方が平均すれば「われわれ」と共有する属性が多いだろう、ということは無視されてしまう。このことが示すようにわれわれ/彼らの区別はいかなる「本質」にも依拠していないのだが、にもかかわらずこの区別を本質主義的に理解するのが右派の認知構造である。
しまうまさんが言及している高市早苗のケースであるが、一方で「戦後生まれは当事者ではない」と主張することによってかつての日本人を切断しつつ、他方で「日本人の連続性」を前提とする「自虐史観」批判をしているのだとすれば、悪質な欺瞞に他ならない。遺産は欲しいが親の借金は払いたくない、ってやつですな。右派が筋を通そうと思えば「戦後生まれは当事者ではない」とは言えないはずで、「被害妄想史観」(Gedolさん)はこの点では一貫しているわけだ。しかし否定的な側面の認識を回避しようとするあまり、しばしば無茶苦茶な詭弁を使ってまで事実を否定しなければならなくなる。もちろんのこと、そんな詭弁は戦前の日本へと本質主義的に自己同一化していない人間には通用しないのであるが。

*1:現在の日本国民の大部分は、旧日本軍の(あるいは大日本帝国の)行なったことに関して当事者ではない、ということ。戦後生まれの日本人が戦前の日本(軍)の行動を指弾する場合に、それが「自」虐なのかどうかは本来重要な問題である。しかしここでは大日本帝国と現在の日本の連続性を無条件に認め、かつ国家と国民の同一化も前提としておくことにしよう。