『歴戦1万5000キロ』

  • 藤崎武男、『歴戦1万5000キロ 大陸縦断一号作戦従軍記』、中公文庫

古書店で手に入れたものだが、文庫化が2002年、親本の刊行が96年なのでそう古い本ではない。著者は歴史家の藤原彰と同じ陸士55期、敗戦時の階級も大尉で同じである。藤原彰の『中国戦線従軍記』は第27師団の中隊長として一号作戦(大陸打通作戦)に参戦した経験を柱とする従軍記だが、こちらは第37師団の中隊長としての従軍記。第27師団が異常気象のため多数の凍死者、凍傷者を出した(旧満州でのはなしではない、華中でのことである)際のことはもちろん藤原彰も書いているが(藤原中隊は難を逃れた)、著者の中隊もまた「昼は酷暑、夜は猛寒波」という天候で凍傷者を出しているほか、第27師団が難にあった地点を後に通過し、軍馬の死体や小銃までが放置されている惨状を目撃している。日本軍の戦死者に占める(広義の)餓死者の割合に関する藤原彰と秦徃彦の対立の大きな原因は中国大陸での餓死者数の推定にあると思われる。太平洋の孤島ならともかく中国大陸で多数の餓死者が出るというのは確かに疑わしく思えるかもしれないが、過酷な天候の中での強行軍で体力を消耗したこと、すでに日本軍の別の部隊が通過した地域では徴発(という名の掠奪)が困難であったこと(これについては本書が繰り返し記述している)などを考えると、直感的なイメージ以上に餓死者が出ていたことは十分に考えられる。ただ、『日本帝国陸軍と精神障害兵士』をふまえるなら、戦争神経症による栄養失調の影響も無視できないように思われる。
第37師団は山西省から44年の2月に転進して一号作戦に参加、その後ヴェトナムを経てマレーで敗戦を迎えている。その間の移動距離が1万5000キロ、一部鉄道で輸送されているとはいえ、基本的には徒歩での行軍である(著者は一部を馬に乗って移動しているが)。一号作戦については他に第3師団に属して参加した元兵士の従軍記を読んだことがあるが*1、そのタイトルが『中国行軍 徒歩6500キロ』なのと比べても倍以上で、途方もない距離である。と、『中国行軍…』を探すために本棚を見たら『歴戦1万5000キロ』の単行本があるではないか! …やはり買った本はせめて目次くらいすぐ目を通しておかないとあきませんな。
重い装備を背負っての強行軍…ということで兵士たちは各地で民間人を拉致し「苦力」として使うことになる。第十軍の法務官だった小川関治郎が南京攻略戦でのそうした情景を「甚だしきは兵の数程も連れたる」「日本兵の行軍やら支那土民の行列やら区別付かざる感なきにあらず」と日記に記していることは何度かこのブログでも紹介してきたが、第37師団は兵員より遥かに多い苦力を連れ、他の部隊から「苦力兵団」と呼ばれたとのこと(ただし著者の中隊も約50人とほとんど小隊並みの兵員数になっていることから、師団の定員約1万4千人*2よりはかなり少ない兵員数にはなっていたはずではある)。しかもその苦力をヴェトナムとの国境まで連れて行軍しているのである。


残念なのは山西省に駐留していた時期の記述がほとんどないこと。本書には著者の詳しい軍歴が記されていないのだが、第37師団の歩兵第227連隊に赴任したのが41年7月だとされている(ただし、藤原彰は8月末まで中国に渡ることができなかった、と回想している)。『日中戦争の軍事的展開』(「日中戦争の国際共同研究 2」、波多野澄雄・戸部良一編、慶応義塾大学出版会)に所収の河野仁、「日中戦争における日本兵の士気 ――第37師団を事例として」によれば41年1月から44年4月までの間に同師団は1500人近い戦死者を出している。それにみあった作戦行動を行なっているはずだからである。河野が援用している元兵士の回想によれば例によってこの師団でも「刺突訓練」が行なわれていたことが分かるし、著者も徴発の際に中隊の兵士が強姦を行なっていたことを戦後の戦友会で知ったと記している。一号作戦中でそうなら、華北ではなおさら性犯罪が犯されていた可能性は高い。

*1:なにしろ一号作戦には約50万人が動員されているので買い集めた従軍記、戦記のうち一号作戦について触れているものは多いのだが、読み切れていない。

*2:この師団は39年に編成された3単位師団である。4単位師団なら2万以上、場合によって3万人近くになる。