『前衛』1月号、『世界』臨時増刊

論座』と『世界』の08年1月号で南京事件70周年にちなんだ特集が組まれていることは青狐さんがすでに紹介されているので、ここでは別のものを。

まずは『世界』が沖縄戦問題特集の臨時増刊号を出している。「沖縄戦と「集団自決」―― 何が起きたか、何を伝えるか」。(右派によって焦点化されている)座間味島の陸軍海上挺身第一戦隊の生き残りである元兵士からの聞き取りも紹介されている(「元日本兵は何を語ったか――沖縄戦の空白」)。


『前衛』の1月号でも南京事件70周年と題した座談会が掲載されているというので買ってきた(尾山宏・笠原十九司・吉田裕の三氏による鼎談)。これで、もしガサ入れ喰らうようなことがあったら公安の刑事がお出ましになりますな(^^;
現在発売中の雑誌なので詳細を紹介するのは控えるが、一点だけ興味深いところに触れておきたい。
204ページで吉田教授が今年の8月15日の読売新聞に触れ、次のように述べている。

北岡伸一・東大教授が「慰安婦」決議の背景にあるものとして、「(アカデミックな分野では)最近の米国では伝統的な政治外交史研究者が少数派になり、日本研究といえば民衆史や女性史が多くなっている」と苦々しく語っていました。

私もこの部分は読んだのだがいま手許にはないので「苦々しく」というニュアンスだったかどうかは留保するけれども、確かにもっぱら否定的な意味あいでそうした変化を指摘する、という流れではあった。アメリカの学会におけるこうした変化はすでにアメリカ国内でも保守派から非難されており、ローティーがそれに与するようなことを言っていたのでやれやれと思ったりもしたのだが、沖縄戦の「集団自決」にせよ、慰安婦問題にせよ、あるいはアイリス・チャンThe Rape of Nanking にせよ、歴史学の分野における潮流の変化を無視しては語れない、というのは確かだろう。そしてオーラル・ヒストリーが依拠するような「記憶」など「塗りつぶされてしまえばよい」と思うような者にとっては、この変化が「苦々」しいものであることは想像に難くない。しかし上野千鶴子に批判された吉見義明の見解すら受けいれようとしない人間が多数いることを考えると、日本の現状に関する限りこの程度で「苦々しく」思ってもらっては困る、というのが率直な感想。この点については上のエントリでの予定を実行する時に再びとりあげるつもり。