「普通のドイツ人」とホロコースト

なにごとかを(あるいはだれかを)批判する際にホロコーストを引きあいに出したことに対して、「ヒトラー呼ばわりかよ」と反応してしまう人々というのは、基本的にホロコースト研究の新しい展開をふまえてないと考えてよいでしょう。ヒトラーを筆頭として狂信的な反ユダヤ主義に染まった連中がそのイデオロギーに従って大量虐殺をやってのけたのだ、と要約できるようなイメージを抱いているわけです。しかしホロコーストがそうした出来事だったのであれば、欧米の知識人(特に左派知識人)は啓蒙の不徹底を嘆いていればすんだわけです。しかし実際には、ホロコーストは少なくとも一部の欧米知識人には自己懐疑の深刻な契機となったのであり、実証的なホロコースト研究もまたヒトラー一人を、あるいはナチスの指導者層を悪魔化して一丁あがり、といったホロコースト認識を覆してきたわけです。
例えばある時期までかなり一般的であった、親衛隊(SS)とドイツ国防軍とを峻別して後者を免罪する認識(これは例えば『大脱走』のようなアメリカ映画でも用いられている図式です)は近年の研究により再考を迫られました。そうした研究成果の一つの代表とも言えるのが、クリストファー・ブラウニングによる『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』(邦訳は筑摩書房)です。その部隊名が示す通り彼らは親衛隊でもゲシュタポでもなく、さらには国防軍の部隊ですらなく、ヒトラー・ユーゲントなどを通じて純粋培養された若者でもなく、予備役から警察大隊に招集された中年の「普通の人びと」でした。しかしその彼らが、結局は多数のユダヤ人の殺害(ガス室ではなく銃殺による殺害)に関与してゆくことになる過程をブラウニングは描いています。
このようなホロコースト研究の成果(H・アーレントによる「悪の陳腐さ」という分析はもちろんのこと)をふまえたうえでホロコーストに言及している人間に対して「ヒトラー呼ばわりかよ」というのは、もう的外れとしか言いようがないわけです。


では「普通のドイツ人」ならぬ当時の(かならずしも熱烈なナチ支持者というわけではなかった)ドイツ知識人はどうだったか? 例えばナチスの国家犯罪と医学者の関わりについては(日本でも731部隊に代表される同様な事例があることもあって)それなりに知られているのではないかと思います。あるいはV1、V2と戦後のロケット工学などとのつながりについても。しかしそれだけではありません。例えば昨日のエントリで言及した「民族ドイツ人」の問題をめぐって当時の歴史学者社会学者、そして経済学者たちの関与が近年議論の対象となっています。繰り返しますがホロコーストとは狂信的な反ユダヤ主義者たちがひたすらそのイデオロギーにのみ基づいて行なったことではなく、一方では「普通のドイツ人」を巻き込んで、他方では人文科学者や社会科学者を動員して実行されたのです。