『外務省革新派』
27日にはNHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」の第3回が放映されるが、このシリーズの第1回「孤立を招いた“外交敗戦”」が放映された前後に読んだ本。「孤立を招いた“外交敗戦”」の主役(の1人)を松岡洋右とするなら、本書の主役(の1人)は白鳥敏夫。今日、2月24日はいまから78年前に松岡が国際連盟総会から“堂々”退場した日であるが、その松岡に比較すると同じA級戦犯でありながら、「富田メモ」が世に出るまでは一般の関心もあまり高くなかったのではないかと思われる人物である。
本書が「外務省改革派」と呼んでいるのはアジア・太平洋戦争期の青壮年外交官のうち、「既存の国際秩序を否定して新しい世界秩序の構築を目指し」、そのために「既存の統治体制の刷新と政治秩序の再編成を目指して行動」し、「ときに軍部以上の強硬論を吐き、しばしば軍部と密着して外交刷新を実現しようと行動」した者たちである。白鳥は彼ら革新派が外務次官や外相に据えようと画策した、革新派のホープであった(引用はいずれも6ページから)。
しかし白鳥次官、白鳥外相という革新派の構想が決して実現しなかったことが象徴するように、著者は「外務省革新派が外務省の実権を握り、戦争に向かう日本外交の舵取りをした、などというつもりはない」(同所、原文のルビを省略)としている。そのため、アジア・太平洋戦争を理解するうえで本書が描くような外務省革新派の動きをどのように位置づけるべきかはちょっと難しい問題に思われる。
以下、印象的だったところをいくつか紹介。
「孤立を招いた“外交敗戦”」では軍部と外務省の「二重外交」がとりあげられていたが、本書では情報部長時代(1930年〜33年、すなわち満洲事件当時を含む)の白鳥が特にアメリカに対して、外務省の方針を超えて刺激的な発言を行い、ジョセフ・グルーに「日本の「二重外交」が外務省にまで及んできている」(42ページ)と結論させたことが指摘されている。
また日中戦争勃発後、「ファッショ諸国」との提携を主張し言動の過激化が進んでいた白鳥について、原田熊雄が廣田弘毅に「彼を責任ある地位に就けるべきではないか」と述べたことも紹介されている。「責任ある地位に就けるべきではない」ではなく「べきではないか」である。著者は「白鳥を責任ある地位に就けて、言わば彼の穏健化を図ろうとする動きであったと言えよう」と分析しているが(147ページ)、後に東條英機を「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」という発想で首相にしてしまったことが連想される。
松岡外相時代の大幅な人事異動、「松岡人事旋風」について。当時一部に「英米派外交官を駆逐」するためという観測があったとされ(240ページ)、さらにはNHKの「その時歴史が動いた」で松岡をとりあげた回、「三国同盟締結・松岡洋右の誤算」などでも同様な解釈が提示されていたが、本書ではこの人事異動の背後には「派閥的考慮」は「なかったように思われる」と結論している。第一次大戦後に日本の国際的な地位が上昇したため外務省は職員を大幅に増やすが、「この時期の採用増大が、のちに人事の停滞、昇進の遅れを生んでしまう」(32ページ)こととなった。「外務省革新派」登場の「底流」はこの人事停滞であり、「松岡人事旋風」は結果的に革新派の要望の一部をかなえた結果になるが、特に革新派を優遇した人事とは言えないというのが著者の結論である。