「東京裁判と特高警察」

対日戦犯裁判では対独裁判に比べ「人道に対する罪」の追及が事実上なされなかったことは、当ブログの読者の方であればすでにご存知のことだろう。もし連合国が東京裁判でも「人道に対する罪」を追及したとすれば処罰の対象となり得たことの一つに軍「慰安所」制度があるわけだが、もう一つ、「人道に対する罪」が事実上看過されたことによって裁きを免れたのがいわゆる特高警察である(憲兵が特にBC級戦犯裁判では多数裁かれたのとは対照的に)。ゲシュタポとの対比で特高警察の「不処罰」を扱っているのが『世界』の先月号に掲載された本論文。
戦犯としての追及を免れた特高だが、GHQの「人権指令」によって1945年10月に廃止され、関係者約5,000人が罷免される。著者は昨年5月刊の岩波新書特高警察』においては、人権指令の履行が「しぶしぶ」であった点を強調しているが(第VII章2節を参照)、本論文では戦犯裁判での不処罰との対比で、一連の処置に意義を認めている。もっとも、いわゆる「逆コース」の中で公安警察の強化が進み、「一九五〇年前後には、罷免されていた特高警察官が大量に復職する」(275ページ)のではあるが。
さて著者は特高と公安の連続性を指摘しつつ、「ただし「特高警察」の非道性・残忍性の記憶は国民の中で持続し、現在に至る」(同所)としている。たしかに小林多喜二の拷問死などは特高の「残忍性」を象徴する出来事としていまでもよく知られていると言えるかもしれない。
しかしながら、特高=公安的な手法のよりソフトな手法について、その悪質さがきちんと記憶され、記憶が継承されているかといえば、疑問を抱かざるを得ない。別件逮捕や微罪逮捕、あるいはことば巧みに近づいて懐に入り込む捜査手法について、あまりにも能天気な発言を多数見かけるからだ。前出『特高警察』第III章5節「弾圧のための技術」を読めば、特高のマニュアルが今日もなお継承されていることがわかる。

 また、「犯罪捜査においては有を無にすることはできても、無を有にすることはできまい、できないことができるが如くに見えるのは、常人の把握しあたわぬ犯罪事実を卓越せる捜査感覚であますところなく摘発するのみであり、こうした意味ではデッチあげの練習、またすなわち捜査技術の錬成であるともいえる」とするのは、大阪府特高課『特高警察における視察内偵戦術の研究』(一九四二年頃)である。
(84-85ページ)

○林半(警部)期間を区切ってあると、その期間がくれば〔釈放される〕と思うのですね、検束の蒸し返しに限りますよ。
○安斎末吉(警部)いつまでも置くということが武器ですから、昔とちがって手荒な取扱はしていませんから、この権限を取り上げられれば事件の真相は出ません。(後略)
藤井省三郎(警部)長いこと繰り返し繰り返し同じことをやる、いつまでかかるか判らぬというところで自白するのです。
(84ページ、『特高主任会議議事録(其の二)』からの引用)

いずれも出典を示すためのアスタリスクを省略。「昔とちがって手荒な取扱はしていません」といっても今日の感覚で文字通りには受けとれないが、この会議当時(1939年)にはすでに特高も「転向」へと働きかける施策を導入していたので、あながち真っ赤な嘘というわけでもない。特に特高が重視したのが「検挙後の措置」で、「取調に当たっては運動加入の動機、現在の心境等、犯人の心情に対し充分の理解を持つよう留意すること」などとされていたという(91ページ)。「話せばわかってくれる」と思わせるのも手の内の一つ、ということだ。