三・一独立運動から100年

間もなくやってくる3月1日は三・一独立運動(の始まり)から100年の日に当たります。ただでさえ「徴用工」判決で植民地支配の歴史が問われているときです。ほんとうであればメディアが積極的にとりあげなければならないはずですが、いまのメディア状況では絶望的でしょう。実は「三・一」に先立つ2月8日には、当時日本に留学していた学生たちが独立宣言を出していますが、主要メディアはほぼ黙殺していました(韓国紙の日本語版記事を転載した Yahoo! ニュースが東京でのシンポジウムを伝えた程度)。時事通信が配信した短い記事は韓国大統領のコメントを報じたもので、7月7日や9月18日と同じ方式です。3月1日についても各紙の報道状況をチェックしたいと思っています。

『ナチスの戦争』

-リチャード・ベッセル、『ナチスの戦争1918-1949 民族と人種の戦い』、中公新書ナチスの戦争1918-1949|新書|中央公論新社

しばらく前に全4章のうち3章まで読んだところで電車内に置き忘れてしまい戻ってこなかったので長らく中断していたのだが、先日図書館で借りて最終章を読了。

タイトルが示す通り第二次世界大戦の前史としての戦間期から、戦争が戦後初期に及ぼした「余波」までを扱っている。新書とはいえ膨大な注も収録されているので、ナチス・ドイツの戦争の全体像を知る入門書としても、研究の蓄積(の一部)を知るのにも役立ちそう。

とりわけ興味深いのが「戦後」を扱った第4章。非ナチ化の不徹底(とりわけ西ドイツで)、戦争末期の経験からくる被害者意識、にもかかわらず掌を返すようにナチ・イデオロギーへの支持が消え去ったこと(と同時に存続した反ユダヤ主義)……と、日本の戦後と比較可能なところが多々あるのがわかる。

ではなぜいまはここまで差がついたのか? というのは本書の課題ではなくわれわれの課題だが、やはり「68年」を考え直すのが第一歩ということになるのだろう。

 

韓国で被爆者手帳交付

-共同通信 2019年1月27日 「長崎市、韓国で被爆者手帳を交付」 http://archive.fo/GKlR4

去る8日の長崎地裁の判決に基づき、韓国人被爆者に対して長崎市が韓国で被爆者健康手帳を交付した、というニュースです。最初から交付すべきだったとは思うものの、控訴しなかったのは高齢の当事者のためにはよかったと言えます。

今回の訴訟の前提の一つをなしているのが、2008年に成立した改正被爆者援護法です。孫振斗裁判での日本政府の敗訴(1974年)をうけて韓国人被爆者への援護がようやく始まりますが、厚生省(当時)は被爆者手帳が国内でのみ有効であるとする通達を出し、韓国在住の韓国人被爆者への援護をネグってきました。2008年の法改正でようやく海外から被爆者手帳の交付を申請できるようになったわけです。

ところで韓国人被爆者の裁判闘争は、戦後補償裁判のなかでも原告勝利の判決がたびたび下されて確定しているという点で異彩を放っています。私は各訴訟について詳しく判決文を検討したわけではありませんが、原爆による被害の場合特別な立法による救済が行われてきたことがどうもその背景にあるようです。

例えば2008年の法改正に先立ち、海外在住の被爆者にも被爆者援護法上の「被爆者」の地位を認めた判決郭貴勲裁判)が2001年に下っていますが、その確定判決(大阪高裁)は次のように判断しています(郭貴勲裁判 高裁判決全文)。

(……)被爆者援護法の複合的な性格、とりわけ、同法が被爆者が被った特殊の被害にかんがみ、一定の要件を満たせば、「被爆者」の国籍も資力も問うことなく一律に援護を講じるという人道的目的の立法であることにも照らすならば、その社会保障的性質のゆえをもって、わが国に居住も現在もしていない者への適用を当然に排除するという解釈を導くことは困難である。

被爆者援護法があるがゆえに国家無答責、除斥期間、日韓請求権協定等々、戦後補償裁判で原告の請求を阻んできた論点での争いにならず、裁判所としても原告勝利の判決を書きやすかったのではないか、と。

 

 

連載「東学農民戦争をたどって」

去る1月15日から週末を挟んで21日まで、『朝日新聞』夕刊紙上で全5回の連載「東学農民戦争をたどって」が掲載されました。担当は『『諸君!』『正論』の研究』の上丸洋一記者です。

(東学農民戦争をたどって:1)民衆抵抗の地、初対面で涙:朝日新聞デジタル

(東学農民戦争をたどって:2)悔恨胸に、学んだ不殺生の精神:朝日新聞デジタル

(東学農民戦争をたどって:3)日本兵の日誌「拷問の上、銃殺」:朝日新聞デジタル

(東学農民戦争をたどって:4)自前の近代を追求して:朝日新聞デジタル

(東学農民戦争をたどって:5)日清戦争にさかのぼる:朝日新聞デジタル

以前に当ブログでご紹介した『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』(高文研)の共著者、中塚明・井上勝生・朴孟洙の三氏がすべて登場する連載で、農民戦争それ自体についての記述を含め内容的には同書と重なるところが多いですが、日本では「日清戦争のきっかけ」程度の扱いを受けることが多い、知られざる戦争を全国紙がとりあげた意義は大きいでしょう。また第5回で紹介されている公式戦史の“改竄”は、現政権の醜態とあわせこの社会の支配層が公文書に対してどのような意識を持っているのかを改めて考えさせます。

なお、マスメディアで言及されているのをまだ見たことはありませんが、今年は三・一独立運動からちょうど一〇〇年の年にあたります。

 

グラン・カナリア島の原爆碑

Eテレの語学番組「旅するスペイン語」、今シーズンはスペイン領カナリア諸島が紹介されています。12月26日に放送された第13回では、こんな話題がとりあげられていました(年明け1月8日に再放送)。


グラン・カナリア島のテルデ市にはヒロシマナガサキ広場があり、日本国憲法9条のスペイン語訳が掲げられています。これを知ったアメリカ人が「スペイン人は反米!」と噴き上がったら世界はどう思うか……というのが、アメリカ各地の「慰安婦」碑にクレームを付けている日本政府や大阪市の振る舞いの愚劣さを理解する手がかりになるでしょう。

「したとされる」はいつごろから?

7月7日、9月18日がそうであったように12月13日もまた「現地で追悼式典」云々という報道に終始した日本のマスメディア。『朝日新聞』なんかは14日朝刊にこんな記事を載せただけです。

さて、少なからぬ方が13日にSNSで批判的に指摘されていたのが、日本メディアの「したとされる」という用語法です。例えば日経新聞は「1937年に旧日本軍が多数の中国人を殺害したとされる」、フジテレビは「1937年に旧日本軍が多くの市民を殺害したとされる」……といった具合です(なお歴史修正主義トップランナーフジサンケイグループの一員たるフジテレビは、被害者があたかも民間人だけであったかのような工作も行ってますね。さすがです)。
言うまでもなく、「……とされる」というフレーズは事実認定の根拠を不特定の他者に委ねることを含意するもので、書き手が事実認定にコミットしないことを意味します。シベリア抑留についての『読売新聞』の記事で「とされる」というフレーズが使われているものを確認することができましたが、この場合は犠牲者の人数が書かれていました。犠牲者数について諸説あるのはよくあることなので、その諸説の一つであることを示すために「とされる」とするのはまだわかります。しかし「多数の」「多くの」と犠牲者数をぼかした記事においてすら「とされる」としていたことが批判されたわけです。
この「……とされる」という逃げはいつごろから一般化したのでしょうか? 『朝日新聞』のデータベース「聞蔵II」は全文検索できるのが80年代なかば以降の記事に限られるためきちんと調べるのはなかなか容易ではありませんが、いまのところ見つけることのできた、『朝日新聞』での最も古い例は1987年12月8日夕刊、東史郎氏の訪中予定を伝える記事の中で「旧日本軍が多数の中国人を殺害したとされる南京事件」とされているものでした。82年に「侵略→進出」の書き換*1えをめぐって、86年には「新編日本史」をめぐって起きた「教科書問題」の影響を疑いたくなるところですが、さらに過去にさかのぼって事例を見つけることができるかもしれません。今後も暇を見て縮刷版をあたってみたいと思います。

*1:当初の報道に誤りがあったのは事実だが、あたかも検定による書き換えがなかったかのような右翼の主張も誤り。

BS1スペシャル「隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の“病床日誌”〜」110分版(追記あり)

以前に地上波で放送されたものの拡大版のようです。放送後にこのエントリに感想など追記したいと思います。


追記:放送後僅かの間に3回も観直してしまいました。ご自身で「怒り」ということばを口にされた清水先生はもちろんのこと、番組全体から静かな怒りがじわじわと伝わってきた気がします。
厳密に尺を測ってみたわけではありませんが、地上波版と比べて増補されていたのは兵士の自殺とその研究、敗戦時に病床日誌が隠滅を逃れた顛末とその後、そして戦後の家族への影響、といったあたりでしょう。
とりわけ興味深かったのが“未復員兵”の父を持つ男性と、家庭で暴力をふるう復員兵を父に持つ女性の事例を通して語られる配偶者や子どもへの影響でした。間接的には孫世代にまで影響が及んでいる可能性も示唆されていたと思いますし、女性のケースはその記憶の仕方からしPTSDを疑うこともできるような紹介でした。
戦争神経症に関する戦後日本の沈黙がこの二人のようなケースの苦しみを一層大きくしたわけですが、番組にも登場した中村江里氏は著書『戦争とトラウマ 不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館)において、戦争神経症が「不可視化」された要因の一つに、軍医が診療・治療だけでなく恩給の策定にも関わっていたこと、を挙げています。「国府陸軍病院の軍医たちは、医学のみならず国家財政の観点から戦争神経症を解釈していたと言ってよいだろう。 」(308ページ) 番組でも多くの精神障害兵士が恩給の対象とならなかったことに触れられていましたが、軍という官僚組織の一員である軍医には、精神障害と軍務の因果関係を否認する動機があった、というわけです。