南京事件否定論の背景と日本政府の不作為

さすがに、人数を明記して「旅団命令で捕虜を殺した」と書いてある戦闘詳報の存在を前にしても否認し続ける人びとを相手にするのは疲れてきたが、ぼちぼち私なりのまとめをば。なにが南京事件否定論を育てる温床になっているのか?


まず第一に、南京事件のスケールの大きさである。通常の日本人が学校教育で学ぶのは、「南京で日本軍が悪いことをやり、たくさんの中国人(教科書によっては「20万人ともいわれる」などの表現も加わる)が殺された」という程度のことでしかなかろう。なにしろわが日本政府の公式見解も「旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害または略奪行為などがあったことは否定できない」と素っ気ないのだから。


4万人とか10万以上とか、まして20万、30万人が亡くなるというのはおよそ非日常的なことであり、人間はそうした事柄を簡単にイメージできるようには進化してこなかった。では南京事件のスケールとはどのようなものなのか? 東京裁判で認定された基準に従っても6週間以上にわたって、東京の山手線の範囲に匹敵する空間的範囲で起こったことである。これだけのスケールの出来事を直観的に把握できる人間はごく限られていよう。ここに否定論はつけ込んでいるわけである。
まして歴史教科書は南京攻略戦における日本軍の作戦など、事件の理解を助けるような情報をまったく伝えていない。南京事件は第二次上海事変にはじまる日本軍の軍事行動の最終局面で起きたものであるが、ここで上海事変南京事件までの全体を一つの出来事と捉えてみるとどうなるか? 日中あわせて百万近い大軍が戦った戦争であり(日本軍全体では9個師団以上、20万)、上海から南京特別市に至る範囲が戦場となった。南京特別市だけで東京都、神奈川県及び埼玉県をあわせたほどの面積をもち、戦前は250万人ほどが住んでいた。南京から脱出する市民もいた一方、上海方面から流入する難民もあり、事件当時の正確な人口ははっきりしていない。しかしハリケーンカトリーナ」の際にも逃げる手段をもたない市民多数が残留したことを思えば、難民区をのぞく南京特別市全域が無人になったなどということはあり得ない。日本軍は5個師団ほどの兵力と揚子江によって中国軍を包囲する作戦を立てたから、日本軍を避けて逃げるには揚子江を渡らねばならないが、それには舟が要る。「日本軍も民間人は殺すまい」「老人や子どもは殺すまい」と考えて残留した人も多くいたであろうことは容易に想像がつく。こうしたスケールの出来事を具体的にイメージすることはできなくても、数字だけから「万の単位、10万以上の虐殺」が決して荒唐無稽でないことはおわかりいただけるのではないだろうか。


第二に、日本政府の不作為。うえでも日本政府の公式見解の素っ気なさに触れた。南京事件は日本軍が引き起こしたものなのだから、誰よりもその実態を調査すべき責任を負うのは日本政府である。前々から言っているように、日本軍の上層部は「不祥事」の発生を認識していた。敵が反日本軍プロパガンダにそれを利用する可能性を考えれば、日本軍こそが真っ先にちゃんとした調査への動機をもってしかるべきだったのである。その後7年以上南京を実効支配した日本軍が事件を調査する意思を持たなかったために、正確な被害把握は不可能となり残された断片的な情報から全体を推定せざるを得なくなってしまった。仮に「30万人」が誇大であるとして、それに効果的に反論できないのは他ならぬ日本軍のせいなのである。
現在の日本政府は否定論に積極的に加担することこそないものの、主体的に事件について調査するつもりもなく、資料の公開にも積極的ではなく、ただひたすら「非戦闘員の殺害または略奪行為などがあったことは否定できない」などと言うのみである。これじゃあ実質的には否定論を後押ししているようなものである。


三つ目は言わずと知れた中国人への蔑視。例のところにはほとんど「俺は中国人が嫌いだ、だから南京事件はなかった」としか理解できないことを言い出すものまで現われたが、他にも「中国側の史料は捏造に決まってる」をはじめとして露骨なヘイトスピーチが並ぶ。文明国日本がそんなことをするわけない、野蛮なのは中国の方だ、と。中国の野蛮さを言い立てても日本軍の野蛮さを否定する根拠にはまったくならないんだけど、そんなこと気にしない。まさに「支那通」の軍人たちの中国観を継承しているわけである。
だが考えても見よう。日清戦争時に日本軍の捕虜を清軍が虐殺したといった事例(これについてはきちんと調べたことがないのでその存否については保留)などが好んでとりあげられるわけだが、30年足らず前の戊辰戦争では、薩長軍側に略奪、死体の陵辱(人肉食)、埋葬の禁止、敗残兵の虐殺といった蛮行がみられたという。
南京事件の時点で計算しても、たかだか70年ほど前まで日本は列強に不平等条約を強いられ、テロの嵐が吹き荒れ、内戦をし、庶民は平気で裸体を晒していたのである*1戊辰戦争の展開次第では日本に複数の政権が乱立し、列強に食い物にされていた可能性だって少なくない。そうした事態を回避できたことを誇るのはいいが、あたかも日本人の努力によってのみ回避したと考えるのはうぬぼれもいいところだろう。中国という列強にとっての大きなターゲットが隣になかったら、日本がどうなっていたことやら…。いまだに抜けない名誉白人根性。現在の中国の人権状況に関して欧米諸国が批判的なのは当然だが、実は日本の人権状況だって彼らの目から見ればいま一つである、ということも知っておくとよいだろう。
青狐さんのこのところの考察を受けて思い浮かんだのが、「南京事件否定論のカジュアル化」である。万の単位で人が亡くなった事件について「あれって嘘だったんだぜぇ」とろくに調べもせずに言えてしまえる現象の背後にも、相手が「中国だから」というのがあろう。
もし、南京事件=あった派の主張も丁寧にフォローしたうえでなおかつ「南京事件はなかった」と確信し、事件についての国際的な評価を覆したいと考えている人間がいるのだとすると、そういう人間にとって一番の障害になるのはカジュアルな否定論者だろう。あんなヘイトスピーチを許容しているかぎり、南京事件否定論が国際社会から真面目に受けとられることは万に一つもないからである。


もうひとつ付け加えるなら、特に保守的な道徳観の持ち主の場合、通常の犯罪に対する態度と戦争犯罪に対する態度が大きく異なる、ということがある。「被害者の人権、遺族の感情を考えて犯罪者には重罰を!」と主張する人びとが、他方では戦争犯罪に関して「戦争だからしかたない」と言ってしまう。戦争犯罪にだって被害者もいれば遺族もいるというのに。そういう人びとが好んで主張するように、戦争はたしかに合法的である。現在でも、まして日中戦争当時においては。しかし戦争が「合法的」であるのは、他方で戦争のやり方について法的な制限をかけ、その制限の範囲で「合法的」であるということである。戦争なんだから多少は不法な行為が生じるのもしかたない…というシニシズムは、実は戦争の合法性を支える根拠を掘り崩す、ということに彼らは気づいているのだろうか?



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*1:裸体を晒す=野蛮という等式に私は与しないが、まあ一般的にはそういうことが言われる、ということで。