笠原十九司、『南京事件と三光作戦 未来に生かす戦争の記憶』、大月書店

先日とりあげた『南京事件をどうみるか』が1998年刊、本書が1999年刊とほぼ同時期の文献。こちらでも1997年のプリンストン大でのシンポジウムがとりあげられているので、内容的に重複するところもある。
第一部「逸したアジアとの「和解」」は1995年の「不戦決議」をめぐる保守派の動きを扱った第一章、南京事件否定論を扱った第二章からなる。特に「言論・報道界」に「南京大虐殺否定の構造」ができ上がっているという指摘(67頁)は重要だろう。
第二部「知られざる戦争犯罪」が三光作戦(燼滅掃蕩作戦)を扱ったパート。南京事件の場合には多分に偶発時であった民間人の殺害が、こちらでは明確に作戦目標の中にとり込まれているという点で、本来南京事件以上に注目を集めておかしくない問題である。一回あたりの犠牲者数が少ないため過少評価されがちだが、トータルでの犠牲者数は南京事件をはるかに上回っている。第二章では中国側の調査から日本軍の性犯罪の実態が紹介され、第三章では三名の元日本兵からの聞き取りをもとに、性犯罪が頻発した背景が探られている。特に注目すべきは、慰安所設置がかえって強姦を多発させたのではないかという仮説(206頁)であろう。「強姦=性欲の問題」という神話に批判的な視角からは、十分予想しうる事態である。
第三部がプリンストン大での「南京1937年・国際シンポジウム」の報告で、笠原氏が関わった部分については『南京事件をどうみるか』より詳しく紹介されている。アメリカでのシンポジウムということもあってか、中国系研究者の中にも犠牲者数を過剰に焦点化することへ批判的な見解を述べる人物がいるというのは貴重な情報であろう。また、本書でもアイリス・チャンの「30万」という数字への固執や史料評価の杜撰さに苦言を呈しつつ、南京事件否定論者によるアイリス・チャン・バッシングがかえってアメリカでの彼女の人気を高めている、とも指摘されている。
この第三部を読んで改めて感じるのが、南京事件研究において第三国(実際にリソースをもつのは…と考えれば欧米)の研究者が果たしうるであろう役割の大きさである。南京事件を単に日中間の問題とせず人類の問題として捉えるうえでの貢献だけでなく、政治的に理解されやすい南京事件研究の周辺に一種の緩衝地帯をつくるうえでも、である。欧米の研究者が本格的に参入してくれば、否定論が「学問」を装うことは困難となり政治運動の領域に撤退せざるを得なくなるであろうし、中国側(中国系)研究者の一部にみられる硬直した姿勢をほぐすのにも有効であろう。


日本に限らず、戦争犯罪や国家犯罪の否認が行なわれる背景はいくつかあろうが、その一つは告発を受ける側がその告発を本質主義的なものとして理解してしまう、というところにあるのではないだろうか。もちろん、告発する側が本質主義的な非難を浴びせてしまう、ということも往々にしてある。ある犯罪が特定の民族なり国家なりの「本質」に由来するものだと考えられてしまえば、告発は「行なわれた犯罪」だけでなく「これからも行なわれるであろう犯罪」を先取りしてなされることにもなってしまうので、これはたしかに不当な告発となってしまう。また、戦争犯罪研究の射程を不当に狭めてしまうことにもなろう。さらに、日中戦争における日本軍の蛮行を「信じられない」とする反応も、帰国した兵士たちの多くが普通の夫であり息子であり父親だった…というところに一つの背景をもつわけだが*1、一人一人をとりあげれば決して邪悪でも冷酷でもない軍隊がなぜ戦争犯罪を起こすのか? をきちんと考えるうえでも、本質主義的な理解に基づく告発や否認に異を唱えていかねばならないだろう。

*1:当時帰還兵から中国戦線での強姦、略奪のはなしを自慢話として聞かされたという証言も少なからずあるのだが、その種の自慢話がホモソーシャルな人間関係のなかでのみ語られたのだとすると、普通の夫(父、息子)という像とのあいだに齟齬は生じないだろう。