北村稔、『「南京事件」の探求 その実像をもとめて』、文春新書

(実際にアップロードしたのは23日です)


基本的に否定的なことばかり以下で述べるため、はじめに肯定的なことを述べておく。本書は、少なくとも黒を白と言いくるめたり、目の前にある歴然たる証拠を無視するような本ではない。例えば「便衣兵の掃討」に名を借りた敗残兵殺害に関する、「マボロシ派」の国際法解釈には無理がある、と明言している。また、本書の柱の一つであるティンパリーの What War Means に関する分析の末尾で、次のように述べるだけの公正さも示している(124-5頁)。

当初、筆者は日中戦争中の英文資料には、国民党の戦時対外宣伝政策に由来する偏向が存在するはずだと考えた。しかし、ティンパリーのWHAT WAR MEANS、『英文中国年鑑』など代表的な国民党の戦時対外刊行物には、予想に反し事実のあからさまな脚色は見いだせなかった。残虐行為の暗示や個人的正義感に基づく非難は見られるが、概ねフェアーな記述であると考えてよいのではないか。少なくとも、一読して「嘘だろう」という感慨をいだかせる記述は存在しない。

だが同時に、この引用箇所は、本書が「結論先にありき」の議論であることをはからずも示してしまっている。従来の南京事件研究を結論先にありきだ、と批判している(21頁など)にもかかわらず、である。要するに、これは「情報の正確さは、それを誰が伝えたかがわかればわかる」メソッドの破綻を晒しており、破綻を認めるだけの正直さは評価できるけれども、もともとそのアプローチに無理があったんじゃないの? ってことである。
本書のタイトルで「南京事件」には「 」が付されている。これは、「「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したか」を問題にする、という著者のアプローチを反映しているわけだ。なるほど、それはそれで考察にあたいする問題であろう。しかしそれが「歴史研究の基本に立ち戻る研究」である(21頁)、とは一体どういう意味なのだろうか? まして副題の「その実像をもとめて」とはいったいなにを意味するのか? 南京事件の「実像」を求めるなら、ティンパリーの編著や軍事裁判の事実認定だけでなく、可能なかぎりの史料を利用して「どのようなことがあったのか」を明らかにするのが「歴史研究の基本」ではないのだろうか? 私には、著者が本書を通じてどのような「実像」を描こうとしているのか、よくわからなかった。


 さて、本書については、すでにタラリさんが詳細な批判的レビューを書いておられる。
http://www.nextftp.com/tarari/kitamura_waku.htm
http://www.nextftp.com/tarari/timperley.htm
http://www.nextftp.com/tarari/timperley2.htm
http://www.nextftp.com/tarari/daikanin.htm
というわけで私が屋上屋を架すこともないと思うのだが、それではあまりに読んだ甲斐がないというものなので、重複もあるが特に印象に残る点について触れておくことにする。

本書の論法の一つが「情報の正確さは、それを誰が伝えたかがわかればわかる」メソッドであることはすでに指摘した。ティンパリー(本書ではティンパーリーと表記)についてはまず What War Means が左翼系出版社から出されたこと、ついで国民党中央宣伝部顧問であったことが焦点化される。しかし「左翼であった、そして共産党の国際宣伝に協力した」ならはなしはわかるが、「左翼」であることと国民党に協力したという二つの情報を、本書はどのように統合しているのか? まったくしていないのである。サヨク云々については「書いただけ」状態。国共合作からみでなにか推論でも提示してみせるのかと思ったら肩すかしである。要するに、左翼アレルギーの持ち主(文春新書の読者には多かろう)には「怪しいやつ」という印象を与えることができるだろう…というだけの印象操作にすぎないのである。
印象操作を通り越して「ゲスの勘ぐり」メソッドとでも名づけたくなるのが、「ティンパーリーは経歴を隠していた」「軍事裁判のときには姿をくらませていた」という主張(29-34頁)である。国民党宣伝部の顧問だったという(南京事件からみでは)一番問題となる経歴がちゃんと明らかにされているのに、いったいなにを隠す必要があったというのだろうか? 事件の目撃者ではないティンパリーが証人として出廷しなかったことになにか不思議があるのだろうか? さっぱりわからない。
本書のもうひとつのトリックは、「南京事件=東京と南京の軍事裁判で事実認定されたような大虐殺」と定義し、それに合致しない記述を挙げてゆく…というものである。 What War Means や『英文中国年鑑』の記述をとりあげては、「南京では三十万人規模の大虐殺が発生した」という認識は読みとれない、とか「六、七週間続いた大虐殺」には思えない…というのである(79ページ以降)。はぁ? というのが私の印象であった。事件の直後に出版されたWhat War Means や『英文中国年鑑』の記載が、事件の全体像とはほど遠いものであることはあたりまえである。どちらも、事件の全貌を調査するだけのリソースをもたない者が、知り得た断片を伝えているにすぎないのであるから。「三十万人規模」とか「六、七週間続いた」というのは、戦後になって軍事裁判のための調査が行われて初めて成立した認識なのである。そんな認識が39年版の『英文中国年鑑』にあったとしたら、その方がむしろおかしい。『英文中国年鑑』の記述が控えめなのは、『年鑑』という文献の性質もさることながら、「よくわからないことについて勝手にはなしをつくったりはしなかった」ことの証しではないのか? 数多くの人間が死亡するような事態(自然災害であれ、戦乱であれ)の報道では、時間が経つにつれ犠牲者数が多くなるのが通例である。これは「大規模な出来事の全貌を把握するには時間がかかる」というごくあたりまえの事実を反映しているにすぎない。いったい著者がここでの議論でなにを論証しようというつもりだったのか、私にはさっぱりわからなかった。


また、著者の「左翼」理解が極めて党派的というか図式的であるための珍妙な主張も多い。例えば笠原十九司や吉田裕のような「虐殺派」を「第二次大戦後の南京と東京の軍事裁判の判決に準拠して「南京事件」を告発する人々」と定義しているのであるが、いったい「準拠」とはどういうことなのだろうか? 軍事裁判の判決を結論とするのであれば、別に新たに研究する必要はないわけである。他方、笠原氏は「南京事件」に空間的にも時間的にも独自の定義を与えたうえで日本軍による蛮行の全体像を描こうとしており、吉田氏は主として日本軍が残した記録から蛮行の実態を明らかにしようとするアプローチをとっている。到底「判決に準拠」とは言えまい。
もうひとつ、南京事件の背景として「日本軍の軍事行動における「政治性」の欠如あるいは未熟さ」「説明責任の欠如」を指摘しているところ(105-109頁)。そこでの本書の分析それ自体には特に異論はないのだが、(明示されてはいないものの)「虐殺派」の議論に対して「軍国主義によりもたらされた「残酷さ」や「非人間性」だけを見てしまい、その元凶としての軍国主義批判に終始すると、問題のはらむ現代的な意味にまで議論が発展しにくい」とされている。しかし藤原彰や吉田裕の著作を読めばよくわかるように、「虐殺派」は軍国主義=悪として事足れりとしているのではなく、蛮行を招いた日本軍の構造的問題を明らかにしようとしているのである(今日の左翼は一般に本質主義的発想に批判的であることを想起されたい)。用語こそ違っていても、本書の指摘は基本的には藤原・吉田両氏の指摘と重なるものであろう。これまた、自分でかってにつくりあげた幻影を批判している…という印象を受ける。


最後に、余談になるが、『諸君』2001年2月号に掲載された各論者への南京事件に関するアンケート結果になかなか興味深いものがあったのでメモ。櫻井よしこは「虐殺の進行した期間」について「一九三七年十二月中旬の数日間。十二月十七日に松井大将が南京に入場するまでの出来事」と回答している。期間をそれだけ限定すれば犠牲者数を「一万人前後」とするのも意外ではない、と言うべきか*1。まさか17日を境に蛮行がぴたりと終った、とでも言うのだろうか。
もうひとつ、あれっ? と思ったのが次の箇所。ティンパリーの経歴がよくわからない、というはなしに絡んで。

このあと研究会仲間の友人から、すでに秦郁彦氏が『南京事件―「虐殺」の構造』(中央公論社、一九八六年)の中で、ティンパーリーが「一九三八年春、上海を離れたが、翌年蒋介石政府の情報部に勤務」と述べていることを指摘された。(…)

…ひょっとして、秦郁彦の『南京事件』も読まずに南京事件研究を始めたわけ…?

*1:山田支隊による幕府山での捕虜殺害だけでも1万人以上という説があるのだから、それでも過少だと思うが。