『近代とホロコースト』(1)


ジークムント・バウマン、『近代とホロコースト』、大月書店(森田典正訳)

1989年の刊行ながらホロコースト研究の「古典」とも評されるバウマンの代表作の邦訳が刊行されことをN・Bさんに知らせていただいたのでさっそく購入。バウマンは1925年、ポーランド生まれの社会学者。70年代にイギリスに移住(リーズ大学)。「訳者あとがき」によれば、2000年刊の新版には"The Duty to Remenber -- But What?"という補遺だか序だかが付け加えられているとのことだが、「ここでは翻訳に含めなかった」…って、なんでだよ!? 事情はわからんがせめて大意くらい紹介するのが学術書として当然の段取りじゃないだろうか。タイトルからして面白そうなのに…と思って調べてみたら、「あとがき」だったんですな

ざっと流し読みして新たに指摘された事実やら印象に残る事実やらを紹介してすむ本でもないので、少しずつ書き継いでいくことにする。とりあえず今回は「緒言」をば。本書の目的は「ホロコーストの教訓を近代論、文明論、文明化の影響論の主流に合流させること」(xx頁、原文の傍点を省略)であるとされている。言い換えれば、「ホロコーストの経験には私も構成員の一人である社会にかんする非常に重要な情報が含まれているという確信」が出発点である。著者のこうしたスタンスの対極にあるのが、ホロコーストを「ユダヤ人だけの問題」にしたり、あるいは「犯罪のドイツ性だけに焦点を当て」るような議論である。また、(「序章」でも詳しく論じられているが)ホロコースト研究が細分化された専門分野の一つになってしまったため、社会学の(あるいは近代史研究の)主流から切り離されてしまい、歴史学の分野で膨大に積み重ねられた成果が社会学の主流にほとんど影響を与えていない…という問題意識も、本書を支えている。人文系の教育を受けた人間にとっては、“ホロコーストと近代”といえばまずアドルノ&ホルクハイマーの名前が浮かぶから、社会学において「ホロコーストと近代化」というテーマが等閑視されていた、と聞かされるとちょっと驚くのだが…そういうものなんだろうか。


 「ホロコーストの経験には私も構成員の一人である社会にかんする非常に重要な情報が含まれているという確信」は、現代日本に生きる人間にとってももちろん他人事ではないわけだが、われわれが本書を読む場合もうひとつの観点が必要となる。訳者は「訳者あとがき」でこう述べている。
 (…)バウマンはジェノサイドを近代特有のものとし、その例としてホロコーストとグーラーグ(ときとしてヒロシマ)をあげる。しかし、二〇世紀に起きたほかのジェノサイド、中国における殺戮と餓死、カンボジア東チモールルワンダにおける大量虐殺はどうか。これらの国、地域の社会は西洋以外にあり、また、近代的とはとうていいいがたい。ここでも大虐殺は近代西洋の産物なのか。
「中国における殺戮」の中に日本軍による殺戮は含まれてないんじゃないか…という印象を受け、20世紀の東アジアでもっとも「ジェノサイド」的性格が強くかつ犠牲者数が多いのは日本軍による(華北を中心とする)燼滅掃蕩作戦じゃないかと思っている私にしてみればちょっと不満は残るが、しかし言わんとすることがわからないでもない。私としては「近代化への反動」として生じたという側面を含めて「近代化」抜きには生じなかった事態だとは思うが、だからといってホロコーストをベースにしてつくった類型にぴったりはまるわけではないのも確かであろう。

(続く)