『新・現代歴史学の名著』

関連エントリ
「日中歴史共同研究」執筆者の「歴史認識」論
「説明」と責任(特に後半部分)

買ってきたばかりでまだ読んでない。ということで実はこの本についてではなく、上の「関連エントリ」で問題にした、「進歩派」の歴史認識についての「保守派」の認識について(「進歩派」の論調の変化をほぼ冷戦の崩壊という事情に還元する説明について)。
本書がとりあげている「名著」のリストは以下の通り。

  • ニーダム、『中国の科学と文明』、1954〜
  • 梅竿忠夫、『文明の生態史観』、1967
  • ゲイ、『ワイマール文化』、1968
  • ウォーラーステイン、『近代世界システム』、1974〜
  • ル・ロワ・ラデュリ、『モンタイユー』、1975
  • ギンズブルグ、『チーズとうじ虫』、1976
  • ル・ゴフ、『もうひとつの中世のために』、1977
  • イード、『オリエンタリズム』、1978
  • 網野善彦、『無縁・公界・楽』、1978/『日本中世の非農業民と天皇』、1984
  • アンダーソン、『定本 想像の共同体』、1983
  • ブリッグズ、『イングランド社会史』、1983
  • ノラ編、『記憶の場』、1984〜92
  • クールズ、『ファロスの王国』、1985
  • オブライエン、『帝国主義と工業化 1415〜1974』、1988〜1998
  • コッカ、『歴史と啓蒙』、1989
  • メドヴェージェフ、『1917年のロシア革命』、1997
  • ダワー、『敗北を抱きしめて』、1999
  • 速水融編著、『近代移行期の人口と社会』、2002/『近代移行期の家族と歴史』、2002


このリストを、まさにベルリンの壁が崩壊した1989年に出版された前編、『現代歴史学の名著』(樺山紘一編、中公新書)のそれと比較してみよう(こちらは出版年を省略した)。


もちろんこれは(編集の経緯は承知していないけれども、最終的には樺山紘一氏に帰責されるかたちで)一人の歴史学者の観点から選ばれたリストであるが、同一人物によるものであるだけに、樺山氏のパースペクティヴを反映しつつも現代歴史学の変化をとらえたものになっていると言いうるであろう。
二つのリストを比較してみた時、私見では次の2点が明らかになると思われる。(1)社会史、民衆史、ポストコロニアルスタディーズ、ジェンダー史学など現代歴史学を特徴づける動向、言い換えれば「国民の歴史」の相対化や「日中歴史共同研究」の日本側座長・北岡伸一氏が(苦々しげに)指摘する政治史、政治外交史の相対的な退潮(という言い方には語弊があるかもしれないが)は新編において鮮明になっていること、(2)と同時に、そうした動向は前編の段階でもすでに現われていること(ブロック、ブローデルフーコーなどがリストに載っていることが象徴するように)、の2つである。ここで特に問題にしたいのは(2)の側面である。もちろん現代歴史学の動向が完全に内在的・自律的なものだというのではない。冷戦の終結が「戦後日本の歴史認識」を越えて広く現代歴史学に影響を与えていることは確かだろう。しかしそもそも新編のリストでも、ほとんど*1の著作は前編の刊行以前に(ということは冷戦の終結以前に)書かれたものである。『社会経済史年報』の創刊は1929年だし、「言語論的転回」の基礎となった哲学における動向も少なくとも1950年代に遡ることができるものである。ポストモダンフェミニズムにとっては1989年(ないし91年)に劣らず1968年という年が重要な意味をもっている。「歴史認識論争」をもっぱら冷戦を軸に整理することは、こうした側面を過小評価してしまうことになるのではないか。

*1:ちょっと言い過ぎた。過半数の、とでもすべきだった。この注追記。