奥宮正武、『私の見た南京事件』、PHP

以前からさがしていたのだが、1997年刊行というのにすでに古書でしか手に入らなくなっているので、ちょっと時間がかかった。
実のところ、奥宮氏自身の見聞が綴られているのは第一章「私の支那事変参戦記」のみで、第三章、第四章ではハーグ陸戦規則やジュネーヴ条約の解説(条文の長い引用を含む)がなされ、第五章では大日本帝国の捕虜への態度を日清戦争から振り返る…といったぐあいで、南京事件そのものについての情報量は乏しい。海軍の艦爆隊(6機)の指揮官だった奥宮氏はほかならぬパネイ号(本書ではパネー号と表記)の当事者であり、この事件についてもきちんと触れてはいるのだが、笠原十九司、『日中全面戦争と海軍 パナイ号事件の真相』(青木書店)も指摘しているように、当然視認できたと思われる米国旗についてはまったく触れていない。


氏は12月25日から約1週間、撃墜された海軍機搭乗員の死体を収容するために南京城内・城外を自動車でまわっている。「ところで、昭和十二年十二月中に、私のように、南京とその近郊を広範囲に、一人で、かなり詳細に、見て回った陸軍の将校が果たしてどれだけいただろうか」と自身述べているように(29頁)、当時の目撃者としてはかなり特異な体験であると言ってよかろう。新聞記者や第三国人のように行動の制限を受けず(海軍士官だから)、中国人のように危害を加えられるおそれもなく、陸軍将兵のように当面の任務に制約されることもなく移動することができたからである。氏が直接目撃しているのは、2日にわたって無蓋トラック約20台分、約500名が「処刑」されている場面であり、その他多くの死体を目撃してる。海軍将校であるが故に可能な質問を現場の将兵にしており、まるで否定論者のテンプレへの返答になっている部分もある(38頁など)。例えば、多数の中国人がおとなしく連行されるのは「腹のすいた者は手を上げよ」と言って騙すからであり、弾薬を節約せよという命令に基づいて日本刀や銃剣を使用した、との答えを得ている*1


氏は秦郁彦の「犠牲者4万人説」を採用しているのだが、その根拠はあまり確たるものとは思えない。自身の見聞から「20万、30万はありえない」という前提を立て、ならば4万程度が妥当だろう…という推論なのだが、20万と4万の差はいかにも大きい。それに、80年代には秦氏も「新たな証拠が出現すれば、多い方へ向かって修正されるのは当然」と主張していたのである。なにより、研究者による南京事件に関する文献としては洞富雄、『南京大虐殺』と秦郁彦、『南京事件』の2冊しか参考文献リストに挙げられていないことからわかるように、「虐殺=あった派」の新しい研究成果をきちんとふまえているとは思えない点が、本書の最大の欠点だろう。そこから、10万のオーダーの大虐殺があったとする主張は「東京裁判史観」だとする見方がでてくるわけである。本書が刊行された1997年にはすでに、「ポスト洞」と言うべき藤原彰笠原十九司、吉田裕らが南京事件についての著作を発表していた。東京裁判を鵜呑みにするならわざわざ研究するまでもないわけである。
しかし興味深いのは、奥宮氏は「虚構説」に比べればまだしも「大虐殺説」に好意的だ、という点。「大虐殺があったことを認めている点では、虚構説あるいは処刑合法説よりも、歴史的な価値がある」「数字の遊びで、問題をすり替えることは正しくないと思われる」(53頁)、というのである。「虚構説あるいは処刑合法説」という表現からもわかるように、氏の「マボロシ」派批判の中心は戦時国際法の解釈に関わっている。この点に関する限り、吉田裕などの立場と同じくらい厳格な解釈を貫いていると言えよう。戦後、自衛隊で空将を務めた立場からすれば戦時国際法には敏感にならざるを得ない、自分の部下が(蓋然性としてはどれほど低くても可能性としては)捕虜になるかもしれない立場であれば、安易に「処刑合法説」など唱えられない、というのはよくわかる。その他に、「海軍の方が陸軍より国際情勢に敏感だった」という自負もあるようだ(155頁以降)。
また、「大虐殺を見た証人はいない」という主張に対しては、「具体的な問題として、一人で数千人の虐殺を見ることがいかに困難なことであるかをこの筆者は理解しているであろうか」と実に的確な指摘をしている。幕府山での大量虐殺のようなことがひっきりなしにあったわけではなく、数人、数十人、数百人の虐殺を積み重ねた結果が万、10万のオーダーの数字になっているのである。


また、日本軍がそもそも捕虜を収容する準備も能力もなかったことを指摘して、「わが陸軍はもとより、政府にも、重大な条約違反があったことになるのでは」「当時のわが国には、外地で、大規模な軍事行動を行なう器量にも物的な国力にも乏しかったことになる」といった率直な指摘(113-114頁)は傾聴に値する。もう1点、自分の戦友の遺体が丁重に葬られているのを発見した時、「そのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった」と記しているのだが(40頁)、もちろん、大虐殺があったのなら、そのような丁重な葬り方はしないはずだ、だから大虐殺はなかった、などといったバカなことは言わない。河村たかしメソッドの使用者は恥じ入るべし。

*1:奥宮氏が南京市内を探索したのは入場式から1週間もたってからのことであり、機関銃を必要とするような大がかりな殺害は終息していた、ということであろう。奥宮氏自身も、別の箇所では、「占領の初期はともかくとして」という但し書きをつけている。