数学屋さん、ふたたび

「虐殺の存在は否定していない」と繰り返し表明しているのになんでこだわるの? とお思いの方もおられるかと思います。30万人説を否定するのによりによって「1万人くらいならあっただろうが…」と、私に言わせればそれこそ「ありえない」数字を挙げた宮台真司をひきあいに出している、というのが最大の理由です(トラバ送ろうと思ってMiyadai.comに久しぶりにアクセスしようとしてみたらできないもんで)。


まずは「南京大虐殺」はあったのか?」というエントリへのコメント欄での発言。

「どう考えてもありえない」というのは、論拠の説明が難しいのでこのような表現になっています。これは、文字通り、どう考えても必然性が見つからないという意味で「どう考えてもありえない」ということなのです。

仮にも「数理論理学を勉強してきました」と看板に掲げているブログでこんなこと書きますかね。「必然性」があったら「蓋然性」は100%というかもはや問題にならないでしょう。「蓋然性」が問われるのは「可能だが必然ではない」事象に関してだけです。しかもこの人の考える「必然性」たるや、こんなもんでしかない。

日本軍は、なぜ30万人もの人を虐殺する必要があったのでしょうか?ナチスドイツのアウシュビッツなら、思想的な問題として、ナチスにはユダヤ人を殲滅する必要があったということが理解できます。しかし、南京を攻め落とした日本人に、どういう理由で中国人を30万人も虐殺する理由があるのでしょうか。

別に虐殺は南京陥落後だけに起こったわけじゃありませんがまあそれはおいておきます。このひと、ホロコースト否定論が「最終的解決とはユダヤ人抹殺ではなく追放のことだった」とか主張しているのを知ったうえでこんなこと言ってるんでしょうか? 「思想的な問題」とか雑駁な説明で「必然性」を納得されるなら、とりあえず次の3つを指摘しておきましょう。

  1. 中島第16師団長の日記(12月13日)より。「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも(…)」
  2. 大宅壮一が伝えている柳川第十軍司令官の訓示。「山川草木、全部、敵なり」 柳川発言は伝聞ではあるけれども、南京攻略に際して「「イペリット」及焼夷弾を以てする爆撃を約一週間連続的に実行し南京市街を廃墟たらしむ」ことを公式に意見具申した第十軍の司令官の訓示としては、「蓋然性」は決して低いとは言えない。
  3. 第十軍の小川法務官の日記、早尾陸軍軍医中尉(当時)の報告書などにおいて、遊戯感覚で殺害が行なわれたことが示唆されている。また、強姦後に「口封じ」のために殺害が行なわれた事例のあることは、1939年2月の陸軍次官の通牒に参考資料として添付された、「事変地より帰還の軍隊・軍人の状況」に帰還兵の言動として「或中隊長は、「余り問題が起こらぬ様に金をやるか、又は用を済ました後は分からぬ様に殺しておく様にしろ」と暗に強姦を教えてきた」というものが報告されていることなどから察することができる。

ああやっぱりね、とおもったのがこれ。

必然性が一つでも見つかるなら、「あったかもしれない」というふうに蓋然性の判断が変わるでしょう。しかし、理由が見つからない行為をすると考えるなら、日本民族はそういう民族なのだと考えるしかなくなります。それは蓋然性がまったく感じられないのです。

ここで何度も問題にしてきた「本質主義」ですよ。南京攻略戦の実態を調べもしないで勝手につくりあげたイメージだけで「理由がない」と断じ、「日本民族はそういう民族なのだと考えるしかなくなります」と恫喝! 「虐殺の存在は否定していない」というのがご本人の主観にとって真実であることを否定はしませんが、発想はほとんど否定論者と同じです。


で、ようやく新しいエントリについて。

今回はとりあえず前者についてのみ。上で言及したコメント同様、細かいところでいろいろ突っ込みどころがまずあるんですよね。例えば「普通唯物論的に物事を捉えると、真理というのは対象である物質的存在をよく観察することによって、存在と認識との一致ということから得られるものと考えられる」というところとか。真理の「対応説」と唯物論は独立した発想ですよ。このエントリにおける「言語ゲーム」概念の援用のされ方が的外れというか意味がないという点については、ヴィトゲンシュタインに関心のある人にとっては自明だと思うし関心のない人にとってはどうでもいいことなので詳述しませんが、「言語を使うことによって真理が影響されるという関係にあるのではないか」という一節を読むと、まさか言語相対主義とごっちゃにしてませんよね? という疑念が生じるとだけ述べておきましょう。

本多さんの報告が事実であると仮定して考えると、ここに語られていることはやはり客観的に見ても「虐殺」だといえるだろう。これが事実なら、「虐殺」はやはりあったのだといえるのだと思う。これが「大」か「小」かを考えるのは、僕は意味がないと思うのだが、30万人説はそのような意味のない方向に議論を持っていこうとする「言語ゲーム」のように感じる。

これは日本兵が赤ん坊を殺害した、という個別ケースについての証言を受けてのこと。誰も個別の殺害事例を「大虐殺」だとは言ったりしていないのであって、「これが「大」か「小」かを考えるのは、僕は意味がないと思う」と言うこと自体に「意味がない」。ちなみに「大虐殺」という用語についての私の考えについてはこちらをご参照いただきたい。

これは二つの事実だけからは出てこない。それこそ、戦争中のほとんどすべての事実を洗い出して、そこからの抽象としてそのような一般的傾向を引き出さなければならない。しかし、もしこの二つの報告から、やはり「南京大虐殺」は「大虐殺」であって、かなり法外な人数の人が虐殺されたのだ、と考えるならこのような行為があちこちであったと考えなければならない。そのような判断は、まず日本軍一般の特質という認識があって、それがこの二つの場合に表れていると考えなければならない。

いやだからさ、だれもこの2例だけから「大虐殺があった」と結論しているわけじゃないでしょ? ひょっとしてこの人は戦犯裁判でも証拠として提出された埋葬記録のことも知らないのか? 知らないのは恥じゃないけど知らずに得々として「30万人説を言語ゲームの観点から検討する」とかぶちあげるのは恥ずかしいぞ。


このエントリを読んで唯一腑に落ちたのは「板倉さんは研究者であるから人口統計などのデータを手に入れることが出来るが」という部分。そうかぁ、板倉由明説かぁ…と。「研究者」は板倉由明一人じゃないんだけど、ほかに誰の本を読んだんだろう?