江口圭一、「上海戦と南京進撃戦―南京大虐殺の序章」

古書店で入手した『南京大虐殺の研究』(洞富雄・藤原彰本多勝一編、晩聲社)に所収。江口氏の南京事件についての論考を読むのは初めて。
このエントリで紹介したNHKスペシャル日中戦争〜なぜ戦争は拡大したのか〜」を観ていてちょっと不可解だったのは、軍中枢の「対支一撃論」を紹介する際に河辺虎四郎少将回想録が史料として用いられていたこと。というのも河辺虎四郎少将はいわゆる「不拡大派」の一人だったからだ。しかしこの論文を読んでかなり頭の中が整理できた。まず第一に、「拡大派」「不拡大派」といってもその違いはいわば程度の差に過ぎず、中国の抗戦意欲(および能力)を見くびっていた点や、華北に日本の勢力圏をつくり出そうとする目論見を持っていたことなどは共通していたからである。また、対中戦争の長期化を厭うからこそ、川辺虎四郎は「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」と主張し、戦力の逐次投入ではなくなんと15個師団を一挙に動員する作戦を立てたというのである。
また、本来上海居留法人の保護を目的として派遣されたはずの上海派遣軍司令官松井岩根が出立前から公然と南京攻略の目論見を語っていたのに、軍中枢や政府が真剣に抑止しようとはしていなかったことも史料に基づき指摘されている。


十五年戦争全体を通じて旧日本軍のデタラメぶりを物語るエピソードにはこと欠かないのだが、本論文を読んで初めて知った次のやりとり(30〜36頁参照)には、不謹慎とは思いつつ声をあげて笑ってしまった。中支那方面軍参謀副長武藤章が第16師団参謀長中沢三夫と11月末に行なった書簡でのやりとり。第16師団は10月30日に北支那方面軍から上海派遣軍へと転属になった師団であること、また中支那方面軍内部でも上海派遣軍と第十軍の間で、また各師団の間で「一番槍」争いがあったこと*1が背景になっている。まず武藤章が「第16師団にはずいぶんと期待していたのに、思ったほどの戦果を挙げていないようだ。第十軍の第6師団はやはり北支から転用された師団だが大きな戦功を樹てているぞ」と煽る書簡を中沢三夫に送ったのだが、それに対する中沢三夫の返信が凄い。その大意を現代語で要約するとこういう感じ。
上陸以来、一貫した作戦上の方針をまったく示してもらっていない。「次は○○をとれ」「△△に進撃せよ」と場当たり的な命令が来るばかり。これでは機動的に進軍しようにも準備のしようがない。しかも戦場は水路(クリーク)を利用しなければうまく進軍できない地形なのに、必要な装備を与えられていないばかりかろくな補給もない。自動車道があると聞かされたからそれなら野砲なども通すことができると思ったら「真赤ナ嘘」で、砲兵隊の移動はままならない。船を配備してくれと頼んでもなしのつぶてだが、他の師団には配備されてるらしいじゃないか。「継子ノ悲哀」を感じて腹が立つ。橋はことごとく落とされていて師団の工兵隊だけでは追いつかない。貨車もないので近くにいた重砲(独立重砲大隊のことかと思われる)に借りて使ったが、その賃借の交渉の際に拳銃を撃った撃たないの騒ぎになった。我が師団の上陸に使った資材は(他の師団の上陸後の)残りものだったらしいじゃないか。第十軍が南京攻略を目論んでいることなど初めて聞かされたが、以前に「本当に南京まで攻略するのか?」と軍の幕僚に尋ねたら「あれはまあ景気づけだ」と言われてたのに…。
なんというか、もっとも合理性が貫徹されるべき組織の一つである軍隊の、参謀同士のやりとりですよ、これが。江口氏は、遠く華北から転戦してきたのに場当たり的な命令に振り回されたあげく無能呼ばわりされた第16師団の憤懣が、後の蛮行に繋がった可能性を示唆しているが、内輪もめのそばづえを食って殺された犠牲者はまさに浮かばれまい。


ちなみに、以上はすべて中国語などまったく読めなくても資料から明らかにできる事柄です。


追記:第16師団は南京事件においてもっとも大きな役割を果たした部隊の一つと考えられており、師団長中島今朝吾少将は秦郁彦にも「中島のような指揮官の責任は大きい」と名指しで批判されている。この師団長は、南京から上海へと高級家具を持ち帰ろうとして中支那方面軍司令官松井石根にとがめられると「国を取り人命を取るのに家具位を師団が持ち帰る位が何かあらん、之を残して置きたりとて何人か喜ぶものあらんと突ぱねて置きたり」、と日記に記している。あからさまに総司令官をバカにしたこうした態度の背景には、「此悲哀ハ一生忘レズ候」と中沢参謀に言わしめたほどの、司令部に対する不信があったのかもしれない。

*1:上海派遣軍参謀副長上村大佐の日記。「戦況は進む。盲目滅法なり。…丸で各兵団の『マラソン』競争にて後方の追及も何もあったものにあらず」。カタカナをひらがなに改めた。11月13日に上陸した第16師団主力だが、同師団の第16輜重聯隊が上海に上陸したのがなんと11月30日。そのころ、師団主力は100キロほども先まで進軍していた。