松井石根と中島今朝吾

敗戦時に東部憲兵隊司令官だった大谷敬二郎は『昭和憲兵史』(みすず書房)や『憲兵 自伝的回想』(新人物往来社)などで、二・二六事件後に憲兵司令官となった中島今朝吾の政治的な動き(代表的なのが廣田内閣総辞職後に組閣の大命を受けた宇垣一成を脅迫して大命拝辞を迫ったことである)について記述しているが、『昭和憲兵史』には次のような一節がある。

 この間、中島司令官は宇垣を支持する一派に弾圧を加えようとした。その目標となったのは、主として在郷将官で林弥三吉、上原平太郎、原口初太郎ら、新しいところでは建川美次、松井石根らであった。始めは尾行をつけて厳重に監視せよと命じたが、時日の経過と共に、これら主要人物を検挙せよといい出した。(…)
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「中島司令官の無軌道ぶりは、当時の憲兵の頭痛の種だった」、そこで東京憲兵隊は「面従腹背の挙に出た」、「東京憲兵がきわめて非能率で実務をあげないのに業をにやした中島司令官は東京憲兵を馬鹿呼ばわり無能よばり〔ママ〕したが、実行部隊はあえてその無能に甘んじ」た、とされているので、松井石根らが中島憲兵司令官のこうした動きを承知していたのかどうかはわからない(大谷も記述していない)。しかし中島今朝吾の側が松井に対して腹に一物もっていたことにはなるわけで、これを踏まえるなら『南京戦史資料集』に収録された中島日記での、松井司令官を小馬鹿にしたような記述は陸軍内の派閥対立に根ざしたものだと考えることもできる。さらにいえば、統制派に近い松井石根に対して第十軍司令官柳川平助は皇道派の大物の一人であり、二・二六事件後の粛軍人事で予備役に編入されていたという経緯がある*1。中支那方面軍の統制がそのトップレベルで乱れていったのも無理のないはなしである。

*1:『昭和憲兵史』には昭和9年憲兵隊が入手した「陸軍派閥一覧表」なる資料が添付されており(705ページ)、それによれば松井石根は「清軍派」「初期統制派」と位置づけられており、林陸相(当時)を中心とする統制派とは「監視」「警戒」の関係にあったとされているが、他方「初期統制派」と皇道派とは「相互排撃」の関係にあるとされている。