『敗北の文化』

ヴォルフガング・シヴェルブシュ、『敗北の文化 敗戦トラウマ・回復・再生』、法政大学出版局


いやまだ買っただけで読めてないんですが。ドイツ語原著の第2版と同年に出版された英訳版を底本にした邦訳で、英訳からの翻訳を勧めたのは原著者だとのこと(「訳者あとがき」より)。邦訳のサブタイトルは英訳のそれをベースにしたもので、原著のサブタイトルは「1865年アメリカ南部、1871年フランス、1918年ドイツ」となっており、本書の分析対象を端的に指し示している。読者はこれに「1945年ドイツ、1945年日本、1975年アメリカ…」という問題意識を接続することができるだろう(もちろん、過去へと向けて問題意識を広げてゆくこともできる)。


邪道なやり口だが、「訳者あとがき」から本書の趣旨を要約した部分を引用しておく。

 シヴェルブシュによれば、敗戦のショックに対する最初のもっとも明白な反応は、敗戦という事実の拒否であるが、それは数日、あるいは数週間続くかもしれない。しかしそれを経過したのちには、外部の敵による敗北は内部の古い体制を倒す機会であるという認識が生じてくる。そして、旧体制は軍事的敗北のスケープゴートにされ、敗者は軍事的敗北を浄化と再生のための原動力と見なすのである。さらに敗者は、軍事的敗北と文化的優越性を同一視し、敗北を甘受することは精神的な優越性を敗者に授けると考えるようになる。もっとも一般的な逃げ口上は、相手が経済的、技術的、あるいは人口的に圧倒な〔ママ〕優位に立っていたために、敗者はフェアな戦いを拒まれたという単純な思考である。敗者の目からすれば、近代戦の勝利は工業力の優位性にあり、それは勝者の魂を代償として獲得されたものである。敗者は自己の魂を守るのであり、そこにこそ、本当の勝利があることになる。敗者は勝者を単なる技術的なテクノクラートと見なして、勝者の技術的、組織的なスキルを受け入れるのだが、それは敗者の優越した文化的アイデンティティを高揚させるものとして機能するのである。(…)
(346-7ページ)

訳者が日本の「敗北の文化」を念頭において要約しているから…という可能性は現時点では否定し切れないが、本書の射程をうかがわせる。読了後に(ないしは進行中に)またご報告の予定。