「虜囚の記憶を贈る」第6回

  • 『世界』2008年2月号、野田正彰、「虜囚の記憶を贈る 第六回 受難者を絶望させた和解」

先月号に続いて「花岡事件」の被害者で、労工たちのリーダーだった耿諄(コウジュン)氏からの聞き書き。今回は労工たちを“雇用”していた鹿島建設との交渉や賠償請求訴訟、高裁が調停に乗り出した和解プロセスについての聞き取りが中心。90年7月に、耿諄氏ら元労工(および支援者)と鹿島は「共同発表」を行なう。

 中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者およびその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。
(野田氏による傍点を省略した。引用者)

しかしその後すぐ、鹿島は「謝罪」が「遺憾」の意であり法的責任を認める趣旨ではないこと、賠償は行なわない(供養料ならば支払うことはあり得る)、記念館の設立は認めないことを主張し始める。和解交渉において耿諄氏は「謝罪が第一である。記念館建設は希望する。賠償の額は譲歩してもよい」という立場をとったが、交渉は難航する。説得に訪れた支援者らに耿諄氏は次のように言ったという。「裁判に負けよう、たとえ負けても妥協しません。歴史的に私たちが踏みとどまるなら、我々は道義の上では勝利したことになります」、と。
野田氏も「私は三人〔=日本側の支援グループの中心人物たち〕の善意を信じている」という。元労工たちの年齢を考え、裁判での勝利の可能性の乏しさ(というより無さ)を考え、一刻も早い“解決”を願ってのことではあろう。「だが、なぜ善意の人は被害当事者の話を聴くことができないのか。」 耿諄氏が見せられた「和解勧告書」には「当事者双方は九〇・七・五の「共同発表」を再確認する」とあったが、実際にかわされた「和解条項」ではその直後に「ただし、被控訴人〔=鹿島〕は、右『共同発表』は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了解した」と書かれていた、という。耿諄氏が「第一」と考える「謝罪」をあいまいにした文書が耿諄氏に見せられることのないまま、問題は“解決”してしまった。
現在発売中の号なのでこれ以上詳細にわたる紹介は避けます。以前にも予告したとおり、時間をおいて再びとりあげたいと思っています。
参考:「『慰安婦問題』問題」とは何だったのか(その1?)