臨陣格殺の現場
先日紹介した『司法官の戦争責任』より、臨陣格殺の現場を目撃した法律家の回想を紹介する。今回も引用文の中に長い引用文が含まれていてややこしいのでご注意いただきたい。〔 〕内は引用者の注記。
(…)前野〔東京地裁判事から転じて「満州国」総務庁人事処長、司法部次長などを務めた前野茂〕によれば、前記二つの治安法は、「匪賊討伐という戦闘行動中の緊急的措置として許容されたものであるにかかわらず、軍警は司法制度を無視し、この法規を乱用して事を処理しているのであった。すなわち彼らは『犯罪捜査』の結果逮捕したこの種犯人でも、犯罪の証拠ありと認めれば、『現地処分』ないし『厳重処分』と称し、取り調べ終了後直ちに銃殺または斬殺していたのである。しかも、それが匪団の横行する地帯で行われるのならまだしも、私が刑事司長就任後首都新京に於いてすら実行されているのを知ったときは、肝のつぶれる驚きであった。新京の南郊南嶺は文京地区に指定され、大同学院初め、各種学校、訓練所がたくさん存在する聖域であるにかかわらず、その一角の畑地が厳重処分地になっており、深い穴を掘りその縁に犯人を座らせ、背後から拳銃で後頭部を撃つと犯人は穴に転落するという方法で、後で穴を埋めれば何の痕跡も残さないという寸法である」(前掲書〔前野茂、『満州国司法建設回想記』)。
(『司法官の…』、38-39頁)
リーガル・マインドの薄い組織ではタダでさえ「緊急的措置」を名目に法的手続きが軽視されがちなのに、明文によってその「緊急的措置」にお墨付きが与えられればそれが濫用されるのは必至と言えよう。沖縄戦で発生した日本軍による住民処刑にも通じる問題である。
武藤富雄の著書『私と満州国』には次の記述がある。「『臨陣格殺』の現場を私は一度だけ見たことがある。そこには直径十メートルほどの円形の穴が掘られとおり〔ママ〕、十メートルほど離れた小高いところには数十人の老若男女が立っていた。穴の周囲には武装警官十数人と県司法警察官五、六人が守りについていた。ふくらんだ綿服と綿袴をつけた匪とおぼしい十三人か十四人かが後手に縛られて、じゅずつなぎになって武装警官にかこまれ、現場に曵いてこられた。頭を垂れた者、昂然と顔をあげた者、それぞれゆるやかに歩を運び、穴の入り口の端に私たちに背を向け、列をなして座った。
私は案内者に、これは何をした人たちかを尋ねた。答えは『相当大がかりな匪団の討伐がこの県の奥地で行われ、その時捕虜となった匪賊のうち、帰順を承諾せず、徹底的抗戦の決意をもっている者たちです』ということであった。『司法裁判にかけることはできないのですか』とこの道にかけては素人の私が尋ねると、彼は『置くところがありません』と冷ややかに答えた。そして『臨陣格殺は暫行懲治盗匪法で認められている処置であります』とつけ加えた。
被縛者が座ってしまうと、じゅつづなぎは解かれた。しかし後手に縛られたままである。彼らは穴のふちに、私たちに背を向けて座らせられた。これが『メーファーズ』〔没法子、「しょうがない」の意〕の境地というか、一同黙して声を立てない。武装警官の一隊は彼らを遠巻きにする。銃を携えた十三、四人の警察官は、匪徒から十メートルほど離れた地点に彼らの列と平行して立ち、銃口を彼らに向ける。指揮官の合図とともに一斉に射撃が行われる。匪徒の身体は前のめりに穴に落ちた。弾丸が急所をはずれたと思われる者は二発目で穴のなかにくずれた。穴の彼方で見ていた民衆は、ささやきあうこともせず、無言で三々五々引きあげていった。私は同伴の通訳官とともに一礼してそこを去った。犠牲者の死にあわれをもよおすほどの張りつめた心持ちはなく、むしろ空虚な思いであった」。
(『司法官の…』、40-41頁)
司法裁判を省略する理由が実に「置くところがありません」にすぎない、というところにいわゆる「緊急的措置」の実態が現われている。しかもなるほど形式的には「臨陣格殺は暫行懲治盗匪法で認められている処置」であるにせよ、「奥地」で「捕虜」にした者を連行して取り調べたうえ処刑しているのであるから、「臨陣格殺」ですらない疑いが濃厚である。処刑の風景は、兵士ではなく武装警察官によるという点をのぞけば、多くの目撃証言、体験談と符合する一般的な手法である。「犠牲者の死にあわれをもよおすほどの張りつめた心持ちはなく、むしろ空虚な思い」だったという述懐はなかなかに興味深い。わざわざこのような体験を書き記した以上、このような殺人に対して法律家として忸怩たる想いはあったのだろう。にもかかわらずそれに対してなにもできないし事情を問う以上のことはなにもしなかった、という事態を正当化しようとするシニシズムと正当化し切れないという思いとのせめぎあいが「空虚な思い」につながったのだろうか。