「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」
- NHKスペシャル 「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」(8月7日放映)
番組サイトより。
今、1枚の写真が注目を集めている。
63年前、被爆した長崎で撮影されたもので、亡くなった幼い弟の亡きがらを背負い火葬場の前にたつ「焼き場に立つ少年」と題された写真だ。
撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年8月9日、亡くなった。占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。
なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか。
なぜその写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発したのか。
その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見した。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかったオダネルの思いが告白されていた。
ジョー・オダネル氏の息子、Tyge O'Donnell氏がネットで公開している遺品の写真はこちらから見ることができます。NY Times 紙が掲載したオダネル氏の死亡記事はこちら。番組でとりあげられた写真にも言及されています(強調は引用者)。
Mr. O’Donnell was a 23-year-old Marine sergeant when he was assigned to document the effects of bombing, and spent seven months photographing devastation in Japan. His first subject was Nagasaki, much of which had been destroyed by an atomic bomb on Aug. 9, 1945, three days after Hiroshima was similarly hit.
The photos proved striking. One was of a boy carrying his dead brother to a crematorium. Another showed a classroom of children sitting at their desks, all burned to cinders. In others, faces were ripped away.
Mr. O’Donnell also ventured to Hiroshima and to cities bombed with conventional weapons. He carried two cameras. With one, he took pictures for the military. With the other, he took pictures for himself. When he returned home after the war, he put the negatives of his own photos in a trunk and locked it, emotionally unable to look at them.
When he finally could, nearly a half-century later, he was so repulsed that he threw himself into protesting nuclear arms. In 1995, he published in Japan a book of many of those photos, and, a decade later, another in the United States. He lectured and exhibited in both countries.
いずれ再放送もされるだろうと思いますので、関心をもつであろう方のためにキーワード的に列挙するなら、(1)他者の重大な被害を間近に目撃することがトラウマ的と言ってよい経験足りうること、(2)そうした体験を公に語りうるようになるにはしばしば長い時間(オドネル氏の場合43年間)が必要であること、(3)与えられた「任務」を越えて普遍的な人間性の呼びかけに応える個人が存在すること、(4)もちろんそうした普遍的なメッセージを誹謗する人間はいて、その誹謗の内容は国境を越えて似通っていること(「アメリカが嫌なら日本へ行け」)、などに関わる内容です。
番組で紹介された写真の数々から判断すると、やはりオドネル氏は被爆直後の長崎の子ども達の姿に特に心を動かされたようです。真珠湾攻撃の報を聞いて「日本人を殺そうと思って」海兵隊に志願した青年に、「hate から compassion へ変わった」と言わしめたもの。
帰国後のオドネル氏はホワイトハウスでカメラマンとして働いていたのですが、朝鮮戦争中の1950年、自らの長崎・広島体験を当時のトルーマン大統領に話し、原爆投下を後悔(字幕の表記:テープの原語は afterthought)したことはないか? と尋ねたそうです。トルーマンは(彼の証言につけられた字幕によれば)「動揺し顔を真っ赤にして」イエス、と答えたそうです。ただし、あれは私のアイデアではなく、ただ引き継いだだけだ、とも。原爆投下の最終的な決断がルーズベルト本人によってなされていたら(あるいは回避されていたら)・・・というのも考察の余地のある「歴史のif」なのかもしれません。