『文藝春秋10月号』、「新・東京裁判」他

  • 「国家を破滅に導いたのは誰だ 60年目の総決算 新・東京裁判 決断しないリーダー、暴走する組織」

座談のメンバーは半藤一利保阪正康福田和也御厨貴戸部良一、日暮吉延。小見出しは以下の通り。

  1. 東京裁判は政治劇だ ――マッカーサー
  2. 陸軍を蝕む官僚支配 ――東條英機梅津美治郎
  3. 海軍善玉論は本当か ――伏見宮と米内光政
  4. 逃げる政治家たち ――近衛文麿廣田弘毅
  5. メディアの大罪 ――朝日新聞NHK
  6. 天皇側近の不作為 ――西園寺公望牧野伸顕木戸幸一
  7. 昭和天皇 ――苦悩の果てに


今年の夏は東條メモの公開だとか東京裁判全資料の整理完了とか、東京裁判論にとって大きな意味をもつ出来事があったわけだが、タイミング的にはもちろんその成果を十全に活用できるわけもなく(保阪氏が東條手記に言及して「いかに戦争指導者としての自らの責任に鈍感であったかがよくあらわれています」と語っている程度)、これといって新味はない(来年以降に期待すべきだろう)。「海軍善玉論は本当か」なんて、いまだに問題にされるのかぁ……などと思ったが、しかし繰り返しメディアがとりあげないと認識として広く定着しない、というのはあるのだろう。「メディアの大罪」では小見出しで朝日とNHKが槍玉に挙げられているが、朝日はともかくNHKは会長の下村海南が検察団の訊問を受けた、という指摘があるだけ。しかもそれは徳富蘇峰毎日新聞社賓客)、緒方竹虎朝日新聞)、正力松太郎(読売新聞)、古野伊之助(同盟通信)と並んでのこと。まあいかにも『文藝春秋』。
あとはまあ毎度のことだが、天皇の行動についての事実認識はおおむね合致してもやはり埋められない評価の違いはあるな、と。

中身は当ブログのテーマとはちっとも関係がないのだが、まあタイトルに釣られて。
零戦型ものづくり」ってのはどういうことかというと、こう説明されている。

(……)
 これに対して、製造業の分野でも、日本は中国やアジア諸国にできない先端製品を切り拓いて行けばよい。雁が並んで飛ぶように常に一定の先行性を保っていれば高技術品の製造で繁栄を維持できるという「工業雁行論」があります。しかしこれは危険な夢想でしかありません。
 現実は、新しい工場建設の盛んな中国などの方がコンピューター化が進んでおり、日本の方が熟練者の職人芸に頼っている有様です。職人芸に頼り出すと、技術独裁主義の「零戦・大和現象」が生じます。
 戦闘機の零戦戦艦大和は、当時、世界最高の技術でした。しかし、現場の技術者が自分たちの価値観の中で最良を追及すると、ますます精巧で複雑なものを作ります。
 零戦はその好例で、最高の性能ではあるが、存分に使いこなすには千時間の訓練が必要だったといいます。それに比べてアメリカ海軍のグラマンF6Fは百時間で乗れる設計でした。太平洋戦争も後半の消耗戦になると、日本軍は未熟なパイロットを動員せざるを得なくなり、零戦を使いこなせぬうちに墜されてしまいます。艦隊決戦しか想定しなかった戦艦大和については論を要しないでしょう。
(318ページ)

まずこれ、内的に破綻してませんかね? 「艦隊決戦しか想定しなかった」のは海軍首脳部の問題であって、「技術独裁主義」とは関係ないでしょ。兵器の場合、まずは軍から性能についての要求(これが軍の戦略思想を反映している)があるわけで。それに「当時、世界最高の技術でした」というのもかなりあやしい。零戦の場合、海軍の要求を満たすために設計者、技術者がいろいろと創意工夫をこらしたことを別に否定するつもりはないけど、エンジンの致命的な非力さはやはり技術力の不足に原因があるでしょ。そのためにパイロットの生存性も犠牲にされ(→熟練パイロットの損害多)、スピードが足りないから未熟練パイロットではF6Fなんかに太刀打ちできなくなったわけで。別に設計陣は好き好んで使いにくい戦闘機をつくったわけではなく、当時の日本の技術力で海軍の要求を満たす方法を考えたらそうするしかなかった、ってことでは? 部分的にはすぐれた技術や着想があったにせよ、全体としての技術力はやはりアメリカなんかよりは一段も二段も下だったと評すべきではないのかなぁ。