田中隆吉、『敗因を衝く 軍閥専横の実相』、中公文庫

前掲『東京裁判への道』の主役の一人、元第一軍参謀長、陸軍兵務局長たる田中隆吉少将による「真相暴露」もの。オリジナルは46年に出版されたが、「序」の日付は45年9月24日(!)となっており、また45年12月18日の『東京新聞』に「開戦前後の真相―敗北の序幕―元陸軍兵務局長の手記」を発表しており、敗戦後かなり早い時期に書かれたものであることは確かである。
粟屋氏が指摘するように、東京裁判のストーリーは木戸・田中両名の証言に大きく依存しており、その意味で「東京裁判史観」なるものが存在するとすればそれは木戸・田中史観といってもよいわけだが、実際本書でも東條英機武藤章を代表とする「軍閥」が徹底的に批判されている。対照的に自分は日中戦争の早期解決、日米戦争の阻止、軍部独裁体制の阻止に奔走した悲劇の英雄として描かれているのだが、まあその部分は到底額面通りには受けとめられない。なにより自分の「謀略」(上海事変の際のものが有名)についてなにも語らず、第一軍参謀としての責任についても口を拭っているのだから*1。とはいえ、粟屋氏によれば田中の証言には不正確なところもある(記憶違いや個人的怨恨ないし友誼、天皇を免責するという意図などがその原因だろう)ものの、デタラメを吹きまくったというわけでは決してないようである。本文庫版に解説を書いている筒井清忠氏も本書がA級戦犯被告の選定に大きな関わりを持ったこと、またその史料価値の高いことを指摘している。
興味深いのは、日本人の多くが主としてアメリカを念頭において東京裁判の行方を見守っていたであろうこの時期に、アジアにおける戦争犯罪や植民地支配についての反省が述べられていること(前者については自分の責任を棚に上げて…という気もするが)。

 (…)けだし私はこの頃〔昭和十五年十一月、引用者〕から日中戦争の前途に、深刻なる絶望感を抱いておったからである。(…)
 第二には日本軍の山西進出以来、すでに三年を経過した当時において、三個師団と混成四個旅団を擁しながら、毫も治安維持の成果が挙がらないが、日本軍の軍紀の弛緩と、宣撫班及び在留邦人の無自覚なる優越感と飽くことなき功利的なる行為が、いささかも人心を把握し得ざるのみならず、日に日に離反の一途を辿らせしめつつあることを知ったからである。
(14頁)


 (…)その〔=大東亜省設置。引用者〕目的とするところは、表面はこれによって、日本軍の占領地域内における各独立国との関係を円満に処理せんとするにあるも、事実はこの地域内の戦用資源を最大限に利用せんとするものであって、ある意味においては、範を英国のインド省にとった東亜諸民族に対する一種の搾取機関である。
(105ページ)

後知恵で殊勝ぶってみせることは誰にでもできると言われそうだが、丸山眞男に代表される戦後のオピニオンリーダーの議論においても植民地支配についての問題意識は一般に希薄であること、また敗戦後60年経っても「大東亜戦争」を正当化しようとする試みに事欠かないことを考えるなら、これはなかなか意味のあることではないだろうか。中国畑を歩んだ軍人(「支那通」)の一人だった田中らしいと言えるかもしれない。本文庫版には田中隆吉の息子である田中稔氏の「東京裁判と父田中隆吉」が収められているが、そこで引用されている東京新聞記者江口航氏の手記によれば、田中は「マレーと南京の大量虐殺事件はのっぴきならぬ犯罪として、抗弁の余地なしと考えていた」とのことである。なお粟屋氏によれば、田中は南京事件について当初松井石根大将から聞いた、松井大将は中島第16師団長の責任を指摘した、としていたのに対し、その後の尋問では長勇中佐から聞いたと供述を変えているとのことである。松井大将をかばう目的は明白であると思われるが、他方長参謀が独断で捕虜殺害の命令を出していたという証言もあることを考えると、これまた「あながち嘘とは言えない」証言ということになろう。

*1:藤原彰が『天皇の軍隊と日中戦争』で紹介しているはなし。「例えば航空軍の司令官が飛行機で山西省の作戦地域を視察すると、至るところに火の手が上がっている。いったいあれは何だと聞いたところ、第一軍参謀長の田中隆吉少将が、部落はみんな焼き払えという命令を出していた。日本軍が討伐作戦で進んでいくと片っぱしから部落に火をつけて焼き払っていくという姿を上から見て、これはおかしいではないかと言って疑問を呈した。」