『ヒバクシャの心の傷を追って』

First Into Nagasakiレビューが途中で中断してそれっきりになっているあいだに邦訳が出てしまいました。


今回購入したのはこちら。

  • 中澤正夫、『ヒバクシャの心の傷を追って』、岩波書店

目次

はじめに
第1章 ヒロシマへの旅
第2章 見ても見えない――記憶の障害から「心の傷」を探る
第3章 「見捨て体験」とその記憶の再現――自責感の発生
第4章 見ても感じない――広範に起きた感情麻痺の自己査定
第5章 いまなお続く,引き戻らされ体験
第6章 「心の被害」もあの日がスタート――さらに加わる心の傷
第7章 被爆二世――体験伝達をめぐる微妙な親子関係
第8章 生き残ったことの意味を求めて――被爆者たちの老い
第9章 改めて心の被害とは
第10章 旅のおわりは,旅のはじまり?
おわりに
被爆者の「心の被害研究」歴史と解説


被爆者が深い「心の傷」を負っていることを疑う者はまずいないだろう。しかしあまりにも当然視されているが故にか、「原爆被害について書かれた報告書や書物では「体、暮らし」についての記載はたくさんある。しかし「心」の部分は抽象的な短い記載にとどまっているのが常」である、と筆者は言う(巻末に20ページ弱の「被爆者の「心の被害研究」歴史と解説」が付されている)。

本書では「あって当然じゃない!」とア・プリオリに了解され同情されている「心の被害」を、あえて構造化し、より深い理解を得ようと試みる。きわめて「自明性」の高い日本語である「心」のありようは、実はきわめて「自明性」が低く、百人百様である。
(「はじめに」より)

被爆者のトラウマの一番の特徴は、「人類史上のいかなるできごとも比較しえない激烈なトラウマ」であること以上に、「なかなかうすれないトラウマ」であるところにある、とされる。「何故なら、放射能被害がどこまでも追いかけてくるから」である(「被爆者の「心の被害研究」歴史と解説」より)。「これを阪神・淡路大震災にたとえれば「震度5レベルの余震」が毎日60年間続いているに等しい」(同所)。


以前に、“兵士の加害体験を社会で共有せず個人化し、そのため加害体験に由来するトラウマを兵士個人だけに抱え込ませてしまった”問題について触れたことがあるが、外傷的な体験(被害体験であれ加害体験であれ)の心理学的・精神医学的な特徴についてのごく基本的な知見すら十分に共有されていないことが、戦争犯罪についての議論、とくに「証言」の扱い方にネガティヴな影響を与えているように思われる。もちろん、証言を聴取する側がそうした知識を欠いていた場合に生じる問題も無視できないが、些細な齟齬を指摘すればそれで証言の信憑性を否定できたと思い込む*1のがその好例であろう。

*1:否定論者は自説に都合のよい場面では好んで刑事裁判基準を持ち出すが、実のところ刑事裁判の証言でも大小さまざまな齟齬が含まれていることはよくあり、法律の実務家はそうしたそうした証言の取扱についての理論的・実践的な蓄積に基づいて判断するわけだが、もちろんカジュアル否定論者はそんなことは無視する。